第四十九話 準備完了したのに、まだ二ヶ月も待たされる件について
ジムノペディ第一番が、通った。
最後の和音が、レッスン部屋の空気にゆっくりと溶けた。俺は弦から指を離して、しばらくハープを抱えたまま動かなかった。
ベルナール先生が、向かい側で、ぶるぶると震えた。
「素晴らしい!!」
丸眼鏡がずれた。位置を直しながら、ベルナール先生は続けた。
「エリックくん、一ヶ月で、ここまで……いや、もっと早かったかもしれません。最初の数日で、もう曲の骨格は掴んでいた」
俺は黙って頷いた。1歳10ヶ月児の語彙では、達成感を正確に表現できない。だが心の中では、前世のエリート時代に大型案件を成約したときと似た充実感が広がっていた。
——いつでも来てくれていい。
——お嬢様、準備は完璧だ。
俺は密かに、ハープを撫でた。
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その日の夕食は、家族全員が揃った。
父さん。母さん。エミリー。それから俺。父さんは仕事で帰りが遅いこともあるが、その日はたまたま早く戻っていた。
俺は、ベビーチェアの上で、フォークを握りしめていた。1歳10ヶ月児の手では、フォークを正確に扱うのはまだ難しい。セリーヌが横で見守っている。たまに手を添えてくれる。エミリーは食堂の壁際に控えている。にこにこしながら、こちらを見ている。
スープを一口飲んで、俺は切り出した。
「ちちうえ」
「うん」
父さんが、ワイングラスをテーブルに置いた。
「ともだちは、いつ?」
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父さんが、しばらく考えた。
「ふむ」
それから、ワイングラスを少し回しながら、答えた。
「ああ、あと二ヶ月だ」
——え。
俺の手の中で、フォークが止まった。
「あと二ヶ月、ということになった。詳しい日付は、もう少ししたら決まる」
——あと、二ヶ月。
「先方とこちらの都合を合わせて、調整している」
——調整。
「お前は、引き続き、励めばいい」
父さんはそう言って、ワインを一口飲んだ。
母さんが、隣でにこにこしながら、俺を見ていた。
「ともだちができるのが、たのしみね」
エミリーが、壁際でにこにこしていた。
「楽しみですねぇ、坊っちゃん」
俺は、ベビーチェアの上で、無表情になっていた。
——準備完了したのに。
——あと二ヶ月。
——おいおい。
頭の中で、前世のエリート時代に培った冷静な状況分析能力が、必死に動いていた。一ヶ月で仕上げた歓迎曲。「いつでも来てくれていい」レベルまで磨いた渾身の一曲。それを、あと二ヶ月、寝かせる。
寝かせる必要があるのか、これは。
クラシック音楽は熟成が効くものなのか。一度仕上げた曲を二ヶ月置いておくと、より深みが出るのか。それとも、二ヶ月経つと逆に忘れて、また練習し直さないといけないのか。
俺は、フォークを握りしめたまま、頭の中で無駄な計算を続けた。
セリーヌが、横で、俺のスープ皿を覗いた。
「お口に合いませんか」
俺は、はっと我に返った。
「……いえ」
「では、もう少し召し上がってください」
セリーヌが、フォークを持つ俺の手に、軽く手を添えた。手は、いつも通り温かかった。
俺は、無心でスープを飲んだ。
——あと、二ヶ月。
——練習を続けるしかない。
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夕食のあと、俺はセリーヌに連れられて、子供部屋に戻った。
絨毯の上に下ろされた俺は、しばらくぼんやりしていた。
二ヶ月。八週間。約六十日。前世の単位で、四半期の三分の二。エリート時代なら、新規プロジェクトを一本立ち上げて、初期成果を出せるくらいの時間だ。
何ができる。
ハープの練習を続ける。それは大前提だ。だが、ジムノペディは仕上がってしまった。これ以上磨いても、たぶん「ちょっと上手くなる」程度の話で、決定的な変化はもう来ない。
別の曲を始めるか?
それも考えたが、初対面で何曲も披露するのは、前世のビジネスマナー的に「やりすぎ」だ。手土産は一つでいい。複数持って行くと「自信がない」「気合い入りすぎ」「相手を疲れさせる」という三重の悪手になる。
——では、どうする。
俺は絨毯の上で、ぼんやりと、二ヶ月の使い方を考え始めた。
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絨毯の上で、俺は色々な可能性を吟味した。
ジムノペディを完璧に磨き上げる。これは大前提。だが、すでに「いつでも来てくれていい」レベルまで仕上がっているものを、二ヶ月かけて磨き続けても、得られるものは限定的だ。前世のビジネスで言えば、すでに合格点の企画書を二ヶ月かけて添削し続けるようなもの。労力のわりにリターンが薄い。
他の曲も練習する。これも考えた。だが、初対面で披露するのは一曲にとどめる方針だから、他の曲は本番では使わない。「いつかのために」という気持ちで練習するのは悪くないが、目的のない練習はモチベーションが続かない。
魔力トレを真面目にやる。ハッカー兼ガンマンの未来のために魔力制御を極める。これは継続するべきだ。だが——あと二ヶ月の集中投資先として、それだけでいいのか。
何か、もう一つ、何か。
俺は、絨毯の上で、天井のルーンを見上げた。
ルーンの淡い光が、ゆっくり明滅していた。
——せっかく、二ヶ月もあるんだ。
——もっと、こう。
——何か。
頭の中で、何かが引っかかっていた。形にならない、何か。ジムノペディを弾ききった達成感の奥に、別の何かが芽生えそうになっていた。
——気のせいか。
俺は、頭を軽く振った。
絨毯の上で立ち上がって、棚に立てかけてあるハープを見上げた。手を伸ばしたが、いつも通り、指がわずかに届かなかった。
——もう一度、最初から弾こう。
——ジムノペディを、もう一度。
セリーヌがいつ戻ってきてもいいように、絨毯の上で正座した。蹲踞した妖怪のポーズだ。
待ちながら、俺は心の中で、ジムノペディの最初の和音を鳴らした。
——澄んだ、静かな響き。
頭の中で、楽譜が見えた。




