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第四十八話 歓迎の一曲~お嬢様のために選ぶ、ビジネス手土産的セレクション~

ベルナール先生のレッスンが、増えた。


九月三日の翌日から、父さんが何やら動いていた。書斎で電話をかけて、書類にサインして、ベルナール先生と何度か話していた。エリックが朝食を済ませて子供部屋に戻ると、セリーヌが淡々と告げた。


「今日はベルナール先生が来ます」


——昨日も来たぞ?


俺は、自分の感覚を疑った。これまでベルナール先生は週に一度、決まった曜日に来るだけだった。それが、九月三日以降、急に頻度が上がっていた。


数日かけて観察した結果、新しいスケジュールが見えてきた。月・水・金。週に三回。


——増えた。


明らかに増えた。


その理由について、父さんもベルナール先生も、何も説明しなかった。だが、エリック相手にわざわざ説明する必要はない、と判断したのだろう。1歳9ヶ月児に契約事情を伝えても意味がない。実際、普通の1歳9ヶ月児ならレッスン頻度の変化に気づきもしない。


俺は気づいているが、気づいていないフリをした。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


増えたのは、たぶん、九月三日の演奏のせいだ。


俺がテラスで母さんにハープを弾いた。母さんが泣いた。家族が打たれた顔をした。ベルナール先生も現場にいた。あのとき、ベルナール先生が父さんに何か言ったのだろう。


——エリックくんの才能は本物です。

——もっと真剣に育てるべきです。


そんな進言を、興奮で震えながら、丸眼鏡をずらしながら、ぶるぶると父さんに伝える姿が、容易に想像できた。


父さんは、それを聞いて、即決した。


「では、増やそう」


それだけだ。父さんはそういう人だ。ルミエール・エナジーのCEOらしい、リソース配分の判断力。価値があると判断したら即座に投資を増やす。価値がないと判断したら即座に切り捨てる。たぶん前世の俺の上司にいたら、毎日胃が痛くなるタイプだ。


ありがたいことだ、と俺は思った。


——同時に、まずいことでもあった。


吟遊詩人ルートから逃げるはずだったのに、レッスンが増えた。これまでより三倍のペースで、ハープが上達してしまう。逃げているはずなのに、足元が音楽家の方向にどんどん固まっていく。


——いやいや。


——これは、別ルートだ。


俺は自分に言い聞かせた。レッスンが増えたのは、お嬢様への歓迎曲を準備するためだ。準備が終わったら頻度はまた戻るかもしれない。今は一時的な増強体制であって、吟遊詩人ルートへの傾斜ではない。


セーフ。


俺は、自分にセーフ判定を下した。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


月曜日の朝、セリーヌに連れられて朝食を済ませ、レッスン部屋に戻ってきた俺は、ベビーベッドではなく絨毯の上で正座して待った。1歳10ヶ月児の正座は、見た目はおそらく蹲踞に近い。


時計の長針が、十時に近づいていく。


ドアがノックされた。


「失礼します」


ベルナール先生だった。いつも通り、楽譜の入った鞄を抱えている。大柄な体を屈めながら部屋に入ってきて、絨毯の上で正座している俺を見て、丸眼鏡の奥で目を丸くした。


「エリックくん、今日は……何かあるのですか?」


「……うん」


「珍しいですね」


ベルナール先生がにこにこしながら、向かい側に座った。彼の体格だと、絨毯の上に座るだけで部屋の空気が一段重くなる。


俺は、両手を膝の上に置いた。前世のビジネス交渉でやっていたフォームだ。1歳10ヶ月児がやると、たぶん蹲踞した妖怪に見える。


「先生」


「はい」


「おねがいが、あります」


ベルナール先生が、楽譜の鞄から手を離した。「ふむ」と頷いて、丸眼鏡を少し上げる。


「うかがいましょう」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「ともだちが、できるんです」


「ほう」


「ちかいうちに、あいに、きます」


「それは素晴らしい!」


ベルナール先生がぶるぶると震えた。震えで丸眼鏡がずれた。位置を直しながら、続けた。


「同じくらいの年齢のお子さんですか?」


「うん」


「初めての、お友達ですね」


「うん」


俺は、できるだけ無邪気な顔で続けた。1歳10ヶ月児の無邪気な顔は、努力しなくても勝手にそうなる。便利だ。


「だから、かんげいの、きょくを、ひきたい、です」


ベルナール先生が、しばらく動かなかった。


それから、丸眼鏡の奥で、目元が少しだけ柔らかくなった。


「歓迎の曲を」


「うん」


「お友達のために」


「うん」


ベルナール先生が、深く頷いた。それから一度立ち上がって、鞄から数冊の楽譜を取り出して、絨毯の上に並べた。


「素晴らしい思いです、エリックくん。一緒に考えましょう」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


楽譜が四冊、絨毯の上に並んだ。


ベルナール先生が、それぞれを指差しながら説明を始めた。


「パッヘルベルの『カノン』。とても有名で、誰でも知っている美しい曲です。歓迎の気持ちを伝えるには定番中の定番ですね」


——カノン。


頭の中で、前世の記憶が鳴った。結婚式・卒業式・CM。聞き飽きるほど聞いた。


「ドビュッシーの『アラベスク第一番』。フランス印象派の代表作です。流れるような旋律が美しい曲で、技巧的な見せ場もあります」


——華やか。


ベルナール先生は明らかにこれを推したそうだった。フランス人の家庭教師がフランス人作曲家の代表作を勧める、これは自然な流れだ。


「バッハの『メヌエット ト長調』。初心者にも親しみやすい、優しい曲です。お友達への挨拶として、温かみのある選択肢になります」


——無難。


これも候補としてはアリだ。短くて、誰でも知っている。


「そしてサティの『ジムノペディ第一番』。ゆっくりとした、静かで、不思議な雰囲気の曲です。フランス人作曲家の中でも、独特の世界観を持っています」


——きた。


俺は、心の中で頷いた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


俺は、四冊の楽譜を絨毯の上で見比べた。


見比べながら、頭の中で前世のビジネス交渉を再生していた。初めて会う取引先への手土産。何を選ぶか。


派手すぎてはいけない。「気合い入れすぎだろ」と引かれる。


地味すぎてもいけない。「やる気あるのか」と思われる。


定番すぎてもいけない。「捻りがない」と評価される。


凝りすぎてもいけない。「自分に酔ってる」と思われる。


——ちょうどいい、を選べ。


前世の俺は、毎回そう自分に言い聞かせて、手土産を選んでいた。デパ地下の和菓子コーナーで何時間も悩んだ末に、結局いつも同じ店の同じ詰め合わせを選んだ。


その俺の感覚が、いま発動した。


カノン——定番すぎる。みんなが知ってるってことは、みんなが弾く。被る可能性がある。お嬢様も「またこれ?」と思うかもしれない。


アラベスク——華やかすぎる。初対面で「俺、こんなに弾けるんですよ」と見せつけるのは品がない。


メヌエット——優しすぎる。1歳10ヶ月児が弾く曲としては自然だが、「歓迎の気持ち」を表現するには軽い。


——ジムノペディ。


短くて、静かで、不思議な雰囲気で、誰でも知ってる。サティはフランス人だから、フランス人としても自然。技巧的に派手すぎず、でも音楽的にはちゃんと深い。「やる気はあるけど主張は控えめ」という絶妙なバランス。


これだ。


「先生」


「はい」


「ジムノペディが、いいです」


ベルナール先生が、しばらく動かなかった。


それから、丸眼鏡の位置を直しながら、慎重に口を開いた。


「……エリックくん」


「うん」


「アラベスクのほうが、エリックくんの才能を……もっとお友達に伝えられるかもしれませんよ」


——出た。


予想通りの反応だった。前世のクライアントも、最初に俺が地味な手土産を提案すると「もっと豪華なものを」と必ず言ってきた。だが、彼らは知らない。地味な手土産こそが、長期的な関係構築に効くということを。


俺は、無邪気な顔のまま、首を横に振った。


「ジムノペディが、いい」


「……理由を、伺ってもいいですか?」


ベルナール先生は、にこにこしながらも、本当に知りたそうな顔をしていた。


俺は少し考えた。1歳10ヶ月児の語彙では、前世のビジネス感覚を完璧に説明することはできない。


「……みじかい、から」


「短い」


「ともだち、つかれる、よくない」


「ふむ」


「みじかくて、しずかで、いい」


ベルナール先生が、深く頷いた。


それから、ぶるぶると震えた。


「お友達への、お気遣いですか」


「うん」


「素晴らしい!!」


俺は、無邪気な顔のまま、心の中で頷いた。前世の俺なら、これを「相手のリラックスを優先したセレクション」と説明していた。1歳10ヶ月のエリックは「ともだち、つかれる、よくない」しか言えないが、本質は同じだ。


ベルナール先生は、ジムノペディの楽譜を、絨毯の中央に置き直した。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「では、ジムノペディ第一番、始めましょう」


ベルナール先生が、楽譜を広げた。


俺は、自分のハープを膝に乗せた。あのラップハープだ。ベルナール先生が最初に持ってきてくれた、魔力繊維の弦のついた、軽くて澄んだ音の出る一級品。


弦に指を当てた。


——よし。


——本業は別にあるんだ。


——本業はハッカー兼ガンマン。


——これは、副業だ。


頭の中で、自分に言い聞かせた。これは吟遊詩人ルートではない。お嬢様への歓迎曲を、礼儀として、ちょっと用意するだけの、副業的な活動だ。本業はあくまでハッカー兼ガンマン。


——ハッキングも、銃も、やったことないけどな。


冷静なツッコミが、自分の奥から返ってきた。


俺は、ツッコミを無視した。無視して、最初の音を出した。


ジムノペディの、最初の和音。


澄んだ、静かな、不思議な響き。


ベルナール先生が、丸眼鏡の奥で目を細めた。


「素晴らしい!」


——一ヶ月で、仕上げる。


俺は、密かに決意した。お嬢様が来るのは、いつでもいい。1ヶ月後でも、2週間後でも、明日でも。準備は完璧にしておく。前世のビジネス感覚で言えば、「いつでも提案できる状態にしておく」のがプロだ。


ジムノペディの最初のフレーズが、ゆっくりと、部屋に広がった。

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