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第四十七話 吟遊詩人街道まっしぐらの俺、別ルートを模索する

弾けた。


——弾けてしまった。


母さんの誕生日から、もう一週間が過ぎていた。テラスでバラを渡し、ハープを弾き、母さんが泣いた。父さんも、エミリーも、使用人たちも、みんな何かに打たれたような顔をしていた。


俺だけが、答え合わせをしていた。三つ目のフレーズ、ちゃんと弾けたかな。あの一音、揺れなかったかな。


なんていうか——終わった。


九月三日に向けて、何ヶ月も毎日練習してきた。指が痛くなり、弦のずれを増幅石で直し、教会まで行って意図の原則を深めて、ようやく通せるようになった一曲。それを本番で弾いて、母さんが泣いた。


それで——終わった。


朝、目が覚めて、ベビーベッドの中で天井を見上げた。今日は何の練習をすればいい? 何のために? 母さんの誕生日はもう過ぎた。締め切りが、なくなっていた。


宙ぶらりんだった。


ベルナール先生のレッスンは続く。ラファエル先生の魔力トレも続く。ジュリアン先生の語学も続く。やることは山ほどある。だが「ここに向かって積み上げる」というあの一本の線が、なくなっていた。


しばらく仰向けのまま、天井のルーンの淡い光を眺めていた。


——なあ。


俺は、自分に話しかけた。前世のエリート時代から続く、状況整理の癖だ。


——あれは、何だったんだろう。


何が、と問い返す自分がいた。あの演奏のことだ。テラスで、母さんに、ハープを弾いて、歌わずに、ただ弦だけで、家族に音楽を届けた。


それを——なんと呼ぶ。


ぞわっとした。


ぞわっとして、ベビーベッドの中で起き上がった。寝間着の襟が汗で湿っていた。


——いや。


——いやいやいや。


——待て。


待て、と自分に言い聞かせながら、俺は柵を両手で掴んだ。立ち上がった。掴まり立ちは得意だ。歩けるようになってから半年、こういうとき足腰が使えるのは便利だ。


整理しよう。状況整理。原因分析。対策立案——対策、要るのか?


要る。これは要る。


俺は——ハープを弾いて、誰かを感動させて、それを「贈り物」と呼んだ。これは何だ。これはあれだ。あれの卵だ。


吟遊詩人だ。


「ハープが弾ける俺」が、次に何をするか。


あの感覚が、戻ってきていた。


ベルナール先生がハープを抱えて部屋に戻ってきた、あの日と同じ感覚だ。ピアノが重くて挫折した俺に、先生がにこにこしながら差し出してきた一級品の魔科学ハープ。あれを膝に乗せた瞬間、俺は同じことを考えた。


——吟遊詩人一直線じゃないか。


あのときは、母さんに届ける一曲のために練習を始めるという目的があった。だから不安を脇に置いて、ハープに向き合えた。


だが今、その一曲を弾ききったあとに残ったものは何だ。


「ハープが弾ける俺」だ。


「弾ける俺」が、次に何をするか。


——酒場で、英雄譚を歌って、金をもらうのか?


いや待て、ここは近未来だった。酒場ではない。じゃあどこだ。


考えた。考えてしまった。


プラットフォームの真下、あの青白い光が降ってくる遊歩道。観光客と通勤者が行き交う、ニースの一等地。あそこに座って、ハープを抱えて、通り過ぎる人から少額電子マネーが届く通知音を聞きながら——


ピン、ピン、と通知音。


——うわあああ。


柵から手を離して、寝具に倒れ込んだ。倒れ込んだまま顔を布団に押し付けた。


押し付けたまま、冷静に深呼吸した。エリート時代、苦しい交渉の前にトイレで深呼吸していた要領で、布団に顔を埋めたまま深呼吸した。


——落ち着け、エリック。


——あれは、母さんのためだ。


そうだ。あれは母さんの誕生日のための、私的な、家族に向けた、特殊な一回の演奏だった。商業的な吟遊詩人活動とは、断じて違う。母への愛情表現と、ストリートでの投げ銭活動は、別物だ。完全に別物だ。


セーフ。


俺は布団の中でセーフ判定を下した。あれは特殊事例。例外。一過性のイベント。これからの俺の人生に、吟遊詩人ルートは含まれない。


布団から顔を上げた。天井のルーンが、さっきよりも少しだけ穏やかに光って見えた。


セーフ理論の確立。状況、整った。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


俺はベビーベッドの柵に背中をもたれかけて、座り直した。


——では。


——俺は、何になるんだ。


吟遊詩人ではない。これは確定した。ビジネス系も、正直あまり気乗りしない。父さんを見ていれば分かる。書類と会議と書類と会議の人生だ。前世でもうやった。あれをまた、しかも今度はトップとしてやるのか。


別の何かが要る。もっと、なんというか——


——かっこいい何か。


そうだ。せっかく転生したのだ。せっかく近未来世界に来たのだ。せっかく裕福な家に生まれたのだ。三つも揃って、書類と会議に戻るのは惜しい。


頭の中で、前世で読み散らかしたなろう小説のページがめくれた。死ぬ直前まで読んでいたタイトルだけで脳細胞が死ぬやつもあるが、もう少しまともなジャンルもあった。サイバーパンク系。近未来アクション系。あのへんの主人公たちは、何をしていただろうか。


俺は柵にもたれたまま、天井を見上げた。


——クールなハッカー兼ガンマン。


口の中で、小さく転がしてみた。悪くない。


近未来の街をバイクで疾走しながら、片手で電脳空間に侵入する。腐敗した巨大企業のサーバーをハッキングして、陰謀の証拠を引き出す。追っ手が来る。バイクを降りる。物陰から拳銃を一発。敵が倒れる。月面基地への潜入任務。サイバーニンジャ。


——うん。


——うん、うん。


これだ。これしかない。


頭の中で計画が走り出した。ハッカー兼ガンマンになった俺は、まずどこに住むだろうか。ニースのプラットフォームの一基にアジトを構える。いや、それだと目立ちすぎる。地下都市の一角がいい。古いビルの最上階。窓から街を見下ろしながらコーヒーを淹れる。バイクは地下のガレージに。武器は——


——あ。


俺は、ぴたりと止まった。


——サイバーニンジャ。


——俺、フランス人だぞ。


ベビーベッドの中で、しばらく動かなかった。


ニンジャはどう考えてもアジア系の柄だ。日本人とか、まあ百歩譲って中国人とか、その辺だ。フランス人のニンジャは、いない。前世でも見たことがない。文化的に成立しない。


——いや待て。


——サイバー時代なら、関係ないのではないか。


ニンジャは精神だ。精神に国境はない。電脳空間に肉体はない。アバターをニンジャ風にすれば、誰でもニンジャになれる。国籍は関係ない。サイバーの世界には、文化的境界線など——


ぴたりと、もう一度止まった。


ベビーベッドの中、寝間着姿の俺、誰もいない部屋。状況を客観視した瞬間、いろいろなものが冷えた。


冷えてから、もう一度ゆっくり座り直した。


——落ち着け、エリック。


落ち着いた。落ち着いた俺は、ハッカー兼ガンマンになるためには、まず何が必要なのかを考えた。


ハッキング技術。これは独学で何とかなる、たぶん。射撃技術。これは武術を習えば、その延長でなんとかできる。バイクの運転。これは免許の取れる年齢になってから。電脳空間の知識。これも独学。


——魔力の制御。


ふと、それが頭をよぎった。


サイバーパンクの世界に魔力はないが、ここはサイバーパンクではない。魔法と科学が溶け合った世界だ。だとすれば、戦闘で勝つには魔力の制御が要る。ラファエル先生の魔力トレ。あれを真面目にやることが、ハッカー兼ガンマンへの第一歩になる。


繋がった。


——別ルート、確保。


俺はベビーベッドの中で、密かに頷いた。書類と会議の人生も、ストリートで投げ銭をもらう人生も、どちらも回避できる。完璧な計画だ。


そのとき、ドアが静かにノックされた。


「失礼します」


セリーヌだった。朝の身支度の時間だ。表情はいつも通り動かない。ノックも声も、毎朝同じ角度・同じ音量で来る。


セリーヌが部屋に入ってきて、ベビーベッドの柵に手をかけた俺を一瞥した。それから、いつも通り淡々と、柵を下ろして俺を抱き上げた。


俺は大人しく抱かれた。


——よし。


——魔力トレに、本気を出すぞ。


セリーヌは俺の頭の中など知らない。淡々と寝間着を脱がせ、シャツを着せ、ズボンを履かせる。手は温かい。動きに無駄はない。


着替えが済むと、セリーヌが俺を床に下ろした。子供部屋の中央、いつもの絨毯の上だ。光るおもちゃが、棚から俺を見ている。


——待ってろ。


——今から、お前で本気を出すぞ。


俺は絨毯の上で、密かに拳を握った。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


光るおもちゃが棚から俺を見ている。


俺は絨毯の上を、ぺたぺたと近づいて行った。手を伸ばすと、棚の一段目に届く。手前に置いてあるやつを引き寄せた。


球体型の魔力おもちゃ。透明な殻の中に、小さな光の粒が無数に浮いている。両手で包んで魔力を流すと、光の粒が動く。流す魔力の量・密度・意図によって、動き方が変わる。


最初は「ぼんやり浮かんでいる粒を集める」遊びだった。今はもっと細かい操作ができる。集めて、回して、整列させて、形にして、ほどく。これがラファエル先生の正式レッスンとは別の、自主トレ枠だ。


俺は絨毯の上に座って、球体を両手で包んだ。


——よし。


——今日から、本気だ。


ハッカー兼ガンマンの未来が、俺の魔力制御にかかっている。敵?基地への潜入、電脳空間での激闘、バイクで疾走する近未来の街並み。すべては、ここから始まる。


魔力を流した。


中の光の粒が、ぼんやりと動き始めた。


集める。一点に集めようとする。粒が寄ってくる。寄ってくるが、まばらだ。意図の原則。何をしたいかを、はっきり思い浮かべる。一点に、ぎゅっと、集まれ。


粒が、すうっと寄った。


球体の中央で、小さな光の塊ができた。


——おお。


いつもよりまとまっている気がする。教会回のあと、意図の原則の解像度が上がっているのは自分でも感じていた。あの一件は、本当に効いていた。


集めた光を、今度は回した。時計回り。粒の塊が、ゆっくりと円を描く。


——なんか。


——なんか、楽しいぞ。


ハッカー兼ガンマンの修行のはずだったのに、いつの間にか光の粒を眺めて遊んでいた。粒の回転に集中して、外の音が少し遠くなった。


ノックが二回鳴って、ドアが開いた。


「エリック。起きてるか?」


父さんだった。


俺は球体を両手で包んだまま、ドアの方を見上げた。父さんは部屋に入ってきて、絨毯の上の俺を見て、それから棚のおもちゃを見て、それから俺の手の中の球体を見た。


「ふむ」


父さんは、満足げに頷いた。それから絨毯の縁に膝をついて、目線を俺と同じ高さまで下げた。


「いつもより、粒が綺麗にまとまっているな」


俺は球体の中を見た。回している光の塊が、確かにいつもより輪郭がはっきりしている。


「……うん」


「励め」


父さんはそう言って、軽く俺の頭を撫でた。撫でてから、何かを思い出したように一度立ち上がり、また膝をついた。


「ところで、エリック」


——なんだ。


「喜べ。お前の友達が、もうすぐ増えるぞ」


俺は球体を両手で包んだまま、固まった。


——え。


「ヴァンドームのモンフォール家を覚えているか? 庭で会った、あの一家だ」


——覚えている。


ヴァンドーム家のお父さんが俺に「次は子供を連れてくる」と言ったあの日のことを、俺は鮮明に覚えていた。あれ以来、俺の頭の中では、ヴァンドームのお嬢様との出会いは美少女幼なじみルートの開幕として丁寧に設計されていた。


「あちらの家から、来てもらう日を調整している。詳しい日付はまだだが、近いうちに会えそうだ」


——お嬢様。


——お嬢様が、来る。


「お前と同い年だ。いい関係になるといい」


——同い年。


父さんはそう言って、もう一度俺の頭を撫でた。それから立ち上がって、ドアの方へ向かった。


「邪魔したな。続けなさい」


ドアが閉まった。


俺は球体を両手で包んだまま、しばらく動かなかった。


——同い年。


——同い年の、お嬢様。


——最高じゃないか。


頭の中で、丁寧に設計された美少女幼なじみルートが、急速に現実味を帯びていった。長い髪。優しい笑顔。テラスで紅茶を飲みながら俺の演奏を聞いてくれる、儚げな少女。それらの像が、ひとつずつ解像度を上げていった。


——一緒に通学路でイチャイチャできるぞ。


——通学路……。


——富裕層だから、徒歩じゃないか……。


通学路はない。徒歩通学はない。送迎付きだ。後部座席で二人並んで座っても、運転手と護衛にがっつり見られている。イチャイチャできる空間ではない。


それでも——


俺は密かに拳を握った。


それでも、会える。同い年の、お嬢様に、会える。前世から憧れていたあのジャンルが、ついに俺の人生に組み込まれようとしている。完璧だ。完璧すぎる。


仲良くなろう。


仲良くなって、たくさん遊んで、たくさん話して、いずれは——いや、それは先の話だ。まずは初対面を成功させなければならない。


そのために——


——あ。


俺は、ぴたりと止まった。


——歓迎の、何か。


頭の中で、何かが繋がった。


初めて会う相手に、何か喜んでもらえるものを用意するのは、礼儀だ。前世のビジネスでも、初めての相手と会うときは手土産を用意する。何か気の利いた贈り物。会った瞬間、相手が嬉しくなるような、心のこもった——


——音楽?


——いや、待て。


俺は球体を両手で包んだまま、自分に言い聞かせた。落ち着け、エリック。


母さんの誕生日にハープを弾いたのは、家族のための、私的な、特殊な一回の演奏だった。あれはセーフ判定済みだ。今回もそれと同じだ。同じカテゴリだ。新しい友達への、家庭的な、ささやかな、贈り物。商業的な吟遊詩人活動とは、断じて違う。


セーフ。


俺は二度目のセーフ判定を下した。あれは特殊事例の延長線上にある、別の特殊事例。これは吟遊詩人ルートではない。


球体を、絨毯の上にそっと置いた。


立ち上がって、棚の隣に立てかけてあるハープのケースを見上げた。


——よし。


——練習だ。


母さんの誕生日のときとの経験を生かして練習できる。


俺は背伸びをして、ハープのケースに手を伸ばした。


指が、わずかに届かなかった。

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