第四十六話 母さんの誕生日
九月三日が、来た。
朝、目が覚めた瞬間に、今日だ、とわかった。
枕元のうさぎは、いつも通りボタンの目をしている。俺はしばらく天井を見て、それから、ひとつ息を吐いた。
——やるだけのことは、やった。
バラは咲いた。三日前に、最後の一輪がほどけた。深い赤の、大ぶりの花。結界の中で、今も静かに咲いている。
ハープは、弾ける。最初から最後まで、止まらずに。三つ目のフレーズも、もう切れない。
準備は、終わっている。あとは、今日、それを母さんに渡すだけだ。
なのに、心臓が、朝から少し速い。
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デュボワ邸の一日は、いつもより静かに始まった。
静かだけれど、家じゅうが、どこか張り詰めている。使用人たちの足音が、いつもより速い。すれ違うたびに、誰かが俺に小さくうなずいてくる。エミリーも、ベルナール先生も、庭師も、セリーヌさんも。みんな、今日のことを知っている。みんな、共犯だ。
母さんだけが、知らない。
午前中、母さんは俺の部屋に来た。いつも通り、にこにこして、「エリック、今日はいいお天気ね」と話しかけてくる。今日が自分の誕生日だということは、もちろん知っている。でも、息子が何かを用意しているとは、思っていない。
「うん」
俺はうなずく。それしか言えない。言ってしまいそうで、怖い。バラとか、ハープとか、ひとことでも口が滑ったら終わりだ。
母さんは、俺の頭を撫でて、部屋を出ていった。
扉が閉まってから、俺は詰めていた息を吐いた。
——危ない。
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夕方になった。
誕生日のお祝いは、いつも夜だ。年越しと同じで、デュボワ家の祝いごとは、日が暮れてから始まる。
その前に、エミリーが俺を庭へ連れ出した。
「坊っちゃん。お花を、運びましょうね」
バラの結界を、そっと解く。三日前から咲いている、深い赤の花。鉢ごと、慎重に運ぶ。エミリーのサイボーグの腕が、鉢を抱えても、揺らさない。隣を、俺がついて歩く。
庭の光のインフィニティを抜けて、テラスへ。
テラスからは、天使の湾が見える。夕暮れの海が、金色とも紫ともつかない色をしている。噴水が、ゆっくりと水を上げている。
俺が近づくと、噴水の色が、金色に変わった。
——いつものことだ。
俺が近づくと、噴水は金色になる。来訪者の感情を読む、と聞いた。だとしたら、今の俺の中身は、金色なんだろう。喜びの色。緊張も、不安も、混じっているはずなのに、噴水は金を選んだ。
そういうことに、しておく。
ハープは、もうテラスに運んであった。ベルナール先生が、布をかけて、隅に置いておいてくれた。
準備は、整った。
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夜。
母さんが、父さんに連れられて、テラスに出てきた。
「アルマン、どうしたの? お祝いは中で——」
そこで、母さんの言葉が止まった。
テラスの真ん中に、バラがあった。深い赤の、大ぶりの一輪。テラスの灯りの下で、結界のほのかな金色を、まだ少しまとっている。
その隣に、俺がいた。
布を外したハープを、抱えて。
母さんは、動かなかった。バラと、俺と、ハープを、順番に見た。それから、口元に手を当てた。
「……エリック?」
俺は、ハープを構えた。
弦に、指を置く。Laの場所。Solの場所。指は、もう全部覚えている。何百回も触った。目をつぶっても、どこに何があるか、わかる。
息を、吸う。
——母さんに、聴かせる。
それだけを、はっきりと思い浮かべた。教会で覚えた、深さで。何をしたいのか。誰のために、弾くのか。
弾き始めた。
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最初のフレーズ。
弦が鳴って、フレームのルーンが、音の高さに合わせて淡く光る。青っぽい光。テラスの暗がりに、ぽつ、ぽつ、と灯る。
二つ目のフレーズ。
指が、勝手に動く。練習した通りに。光の色が、少しずつ変わっていく。
三つ目のフレーズ。
——切れない。
つながった。あれだけ切れていた三つ目が、最初の二つから、ひとつの流れになって、ちゃんと続いている。
俺は弾きながら、自分の出している音を聞いていた。Laは、La。高さは、合っている。一つも外していない。それは、いつも通りだ。
でも。
ベルナール先生の言っていたことが、わかる気がした。今、俺の弾いているLaには、行き先がある。母さんに向かって、まっすぐ進んでいる音だ。ただ正しいだけの音じゃない。誰かに、届けるための音。
最後のフレーズを、弾ききった。
ハープの音が、消えた。フレームのルーンの光が、ゆっくりと暗くなって、消えた。
テラスが、静かになった。
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母さんは、泣いていた。
両手で口を覆って、声も出さずに、ぼろぼろ泣いていた。父さんが、その肩にそっと手を置いている。父さんは、泣いてはいなかった。でも、いつもの威厳のある顔が、今は、少しだけ崩れていた。
「エリック」
母さんが、俺の名前を呼んだ。涙で、声がうまく出ていない。
「エリック、あなた……いつから、こんな……」
それ以上は、言葉にならなかった。
母さんは、テラスを横切って、俺の前に膝をついた。そして、俺を、強く抱きしめた。ハープごと、抱きしめられた。
——あ。
母さんの体が、震えている。
俺は、母さんの肩越しに、テラスを見ていた。
エミリーがいた。にこにこした顔で、でも、目のふちが光っていた。ベルナール先生がいた。体を揺らして、何度もうなずいて、丸眼鏡の奥が濡れていた。庭師がいた。セリーヌさんがいた。いつも無表情なセリーヌさんが、今日は、ほんの少しだけ、口元をやわらかくしていた。
使用人たちが、テラスの入り口に集まっていた。誰も、何も言わない。ただ、俺と母さんを見ている。
——みんな、すごいと思ってる。
それは、わかった。空気で、わかる。今日の演奏を、みんなが、すごいと思っている。一歳の子が、ハープを最初から最後まで弾いた。母さんを泣かせた。それを、みんなが、すごいことだと感じている。
俺は。
——ちゃんと、弾けたかな。
そんなことを、思っていた。
母さんに抱きしめられて、みんなに見られて、それでも俺の頭にあったのは、それだった。最後のフレーズ、走らなかったかな。三つ目、ちゃんとつながって聞こえたかな。母さん、ハッピーバースデーだって、わかってくれたかな。
——うまく、やれただろうか。
周りが「すごい」で満ちているテラスの真ん中で、俺一人だけが、答え合わせをしていた。
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母さんが、体を離した。
涙でぐしゃぐしゃの顔で、それでも、笑っていた。
「ありがとう。——ありがとう、エリック。こんなの……こんなお誕生日、初めて」
それから、母さんは、テラスのバラに気づいた。
深い赤の、大ぶりの一輪。結界の金色を、まだ少しまとっている。
「これも……?」
「うん」
「エリックが……育てたの?」
「うん」
母さんは、バラの前にしゃがんで、そっと花びらに触れた。触れて、また、目元を押さえた。
「バラの花言葉、知ってる?」
知っている。前世で、調べた。愛。美。フランスの象徴。母さんに、いちばん似合うと思って、選んだ。
でも、口からは「うん」しか出ない。
母さんは、それでも、わかってくれたみたいだった。しゃがんだまま、俺の方を見て、もう一度、笑った。
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その夜は、遅くまで、にぎやかだった。
母さんは、何度も俺を抱き上げた。父さんは、めずらしく、ずっと機嫌がよかった。いつもなら俺に何か買い与える父さんが、今日は何も買わなかった。代わりに、一度だけ、俺の頭に大きな手を置いて、低い声で言った。
「いいものを、見せてもらった」
それだけだった。でも、それで、十分だった。
ベルナール先生は、帰り際に、俺の前にしゃがんで、丸眼鏡をかけ直しながら言った。
「エリック。今日のあなたの音は——わたしが、これまで聴いたどの演奏とも、違いました」
俺は、首をかしげた。
違う、と言われても。俺は、ただ、練習した通りに弾いただけだ。Laを、Laの場所で。Solを、Solの場所で。教わった通りに、間違えないように。それ以上のことは、していない。
「先生、れんしゅう、した、だけ」
「ええ。練習した、だけ」
ベルナール先生は、うなずいた。それから、笑った。体じゅうを揺らす、いつもの笑い方で。
「その『だけ』が、どれだけのことか。——いつか、あなた自身にわかる日が来ます。楽しみにしておきなさい」
何を言われているのか、よくわからなかった。
俺はただ、母さんの誕生日に間に合わせたかっただけだ。バラを咲かせて、ハープを弾いて、それで母さんが喜んでくれたら、それでよかった。
それが、できた。
だから今日は、それで、十分だ。
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ベッドに入ったのは、夜中だった。
枕元のうさぎが、ボタンの目で、こっちを見ている。
俺は、天井を見ながら、今日のことを思い返していた。母さんの泣き顔。父さんの手。テラスに集まった、みんなの顔。バラの赤。ハープのルーンの、青い光。
——終わった。
ハッピーバースデー計画も、花育て計画も、今日で終わった。何ヶ月も、これのために動いてきた。指一本のピアノから始まって、重くて断念して、ハープに変えて、三つ目のフレーズで詰まって、教会まで行って。バラの結界を、毎朝、欠かさず。
長かった。
長かったけれど——悪くなかった。
母さんが、あんなに泣くとは思わなかった。みんなが、あんなに見てくれるとも、思わなかった。俺は、ただ、母さんに喜んでほしかっただけなのに、なんだか、思っていたよりずっと、大きなことになっていた。
ベルナール先生の言葉が、まだ少し、頭に残っている。これまで聴いたどの演奏とも違う。その「だけ」が、どれだけのことか。
——よく、わからないな。
わからないけれど、まあ、いい。今日のところは。母さんが喜んだ。それが、いちばん大事なことだ。
——でも。
暗がりの中で、俺は、布団から片手を出した。
そして、握った。
久しぶりの、ガッツポーズだった。やたらと出すものじゃない、と自分でも思っている。ここぞというときにとっておくものだ。だから普段は、しない。
でも、今日は——いい気がした。
何ヶ月もかけて、ピアノから始めて、ハープに変えて、三つ目で詰まって、教会まで行って、バラの結界を毎朝かかさず。長かった。長かったけれど、ちゃんと、九月三日に間に合わせた。母さんを、泣かせた。いい意味で。
やりきった。
誰も、見ていない。うさぎのボタンの目だけが、暗がりで、こっちを見ている。それも、見ているうちには入らないだろう。
でも、それでよかった。
これは、誰かに見せるためのガッツポーズじゃない。俺が、俺のために、握っただけのものだ。見ている人がいなくたって、握った手の中には、ちゃんと「やった」が入っている。
手を、ほどいた。布団に戻す。
九月三日が、終わった。
俺は、眠りに落ちた。




