表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

45/56

第四十五話 ご利益があった件

翌朝、いつものように庭へ出た。


エミリーに花壇の前へ下ろしてもらって、バラの蕾に両手をかざす。母さんのために。絶対に枯らせない。気持ちを、結界へ流し込む。


——あれ。


結界の光が、違った。


昨日までと、色が違う。金色に近かったのが、もっと澄んだ、芯のある金になっている。ぶれていない。輝きの縁が、くっきりしている。


おかしい。やっていることは、昨日と同じはずだ。同じ手つきで、同じだけの魔力を、同じ気持ちで流している。なのに、結界の応え方が違う。


蕾を見る。


固いまま——ではあるけれど。緑の粒の先っぽが、ほんの少しだけ、色づいている。赤い。中に詰まっているものの色が、わずかに透けはじめている。


ほどけてはいない。でも、昨日まではこれもなかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


午後のハープでも、同じことが起きた。


三つ目のフレーズ。昨日まで、何度やっても切れていたところ。


弾く。


——つながった。


最初から三つ目まで、ぶつっと切れずに、ひとつの流れになった。指は、昨日と同じ動きをしている。音も、昨日と同じだ。Laの次にSol、間違っていない。でも昨日は、それでも切れていた。今日は、切れない。


もう一度弾いてみる。やっぱり、つながる。


「……」


ベルナール先生が、丸眼鏡の奥で、目を見開いていた。それから、体を揺らして笑った。久しぶりに見る、いつものベルナール先生の笑い方だった。


俺は、ハープを抱えたまま、固まっていた。


何が起きた。


昨日と何も変えていない。練習量を増やしたわけでもない。一晩寝ただけだ。一晩寝て、その前に——


教会に、行った。


待て。まさか。


頭の中で、線がつながりかける。教会に行った。何も起きなかったはずだった。力は降ってこなかった。「まあ、そうか」で終わったはずだった。


なのに、帰った翌日に、バラが色づいて、フレーズがつながる。


これは——ご利益、なのか?


イエス・キリスト。あの名前は、合っていたのか。何も起きなかったように見えて、実は、ちゃんと届いていた。一晩越しに、じわじわ効いてくるタイプの。そういう、奥ゆかしいチートだったのか。


「先生」


「なんですか」


「きょうかい、ごりやく、ある」


ベルナール先生は、きょとんとした。それから、また笑った。


「教会に行かれたんですか。それはそれは。——でも、エリック」


先生は、笑いをおさめて、俺の手元を見た。ハープの弦に置かれた、俺の指を。


「ご利益かどうかは、わたしにはわかりません。神様のことは、わたしの専門ではないので」


それから、ひとつ、付け加えた。


「ただ、ひとつだけ、わかることがあります。今日の三つ目のフレーズは——昨日までと、音が違いました」


音が、違う。


俺は、自分の耳を疑った。違わない。違うわけがない。俺の耳は、ずれた音を一発で見抜く耳だ。今日のLaも、昨日のLaも、同じ高さだった。間違いない。Laは、Laだ。


「先生、おと、おなじ。Laは、La」


「ええ。高さは同じです。あなたの言う通り、一ミリもずれていない」


ベルナール先生は、うなずいた。それから、首を横に振った。


「でも、音は違いました」


意味が、わからなかった。高さが同じなのに、音が違う。そんなことが、あるのか。


「昨日まで、あなたは正しい音を出していました。正しすぎるくらい、正しい音を。——でも、それだけだった」


先生は、自分の胸のあたりを、軽く叩いた。


「今日の音には、行き先がありました。誰かに、聴かせるための音だった。同じLaでも、ただ正しいLaと、誰かに届けたいLaは、違う音なんですよ。あなたは今日、それを弾いた」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


その夜、ベッドの中で、考えていた。


枕元のうさぎは、いつも通りボタンの目をしている。


ベルナール先生の言ったことを、ずっと反芻していた。誰かに届けたい音。行き先のある音。


——心当たりが、ないわけじゃなかった。


教会で、目を閉じたとき。チートの話に逸れる前。いちばん最初に、俺は思い浮かべていた。バラが咲きますように。フレーズがつながりますように。母さんの誕生日が、うまくいきますように。母さんに、喜んでほしい。ハープを、聴かせたい。


あのとき、はっきりと、思い浮かべた。


ステンドグラスの前で、静かな場所で、いつもより深く。何をしたいのか、誰のためなのか。普段は練習に追われて、ぼんやりとしか考えていなかったことを、あの時間、ちゃんと言葉にした。


何をしたいか、はっきり思い浮かべること。


意図の原則。ラファエル先生に、いちばん最初に教わったこと。


——そういう、ことか。


ご利益じゃ、なかった。神の子の真名が効いたわけでも、奥ゆかしいチートが発動したわけでもない。教会で、俺は、自分の願いを、いつもより深く思い浮かべただけだ。それだけのことが、結界の輝きを澄ませて、Laに行き先をくれた。


やったのは、俺だ。神様じゃない。


——とは、思うものの。


それでも、なんとなく。あの場所に行かなかったら、あの時間がなかったら、こうはならなかった気もする。だとしたら、やっぱり、ちょっとはご利益が——いや。


考えるのを、やめた。


どっちでもいい。バラは色づきはじめた。フレーズはつながった。それで、十分だ。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


九月三日が、近づいてきた。


ここからは、時間との勝負だった。そして、隠す相手との勝負でもあった。


母さんに、バレてはいけない。花も、ハープも、誕生日当日まで秘密にしておきたい。サプライズというのは、そういうものだ。前世のドラマでも、サプライズがバレる回はたいてい悲しい空気になっていた。あれにはしたくない。


ところが、これがなかなか難しい。


母さんは、よく俺に話しかけてくる人だ。部屋にもふらっと入ってくる。ハープの練習をしていると、廊下から足音が近づいてくることがある。そのたびに、エミリーがすっと動いて、別の部屋に母さんを案内してくれる。「奥様、こちらのお茶が」とか「お庭の薔薇が」——いや、薔薇は言うな。危ない。


協力者は、エミリーだけじゃなかった。


ベルナール先生は、練習の時間を、母さんが外出している時間に合わせてくれるようになった。庭師は、バラの花壇の前に、さりげなく背の高い鉢植えを置いて、母さんの動線から蕾が見えないようにしてくれた。セリーヌさんは、いつも通りの無表情で、でも俺が花の世話に行く時間を、母さんのお風呂の時間とぶつからないように調整してくれた。


家じゅうが、少しずつ、共犯になっていた。


父さんも、だ。


ある日、廊下で父さんとすれ違った。父さんは、いつもなら俺に何か買ってやろうとする人だ。「エリック、新しい玩具はどうだ」とか「あの絵本を取り寄せようか」とか。でもその日は、違った。


俺の顔を見て、ハープの練習のことも、花のことも、何も聞かなかった。ただ、ひとつだけ言った。


「楽しみにしている」


それだけ言って、行ってしまった。


——父さん、知ってるな。


知っていて、何も手を出さずに、見ている。いつも何かを買い与える父さんが、今回は、俺が自分の手で用意するものを、黙って待っている。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


本番の三日前、予行演習をした。


エミリーと、ベルナール先生だけが見ている前で、ハープを最初から最後まで通す。


最初のフレーズ。二つ目。三つ目——つながる。最後まで、止まらずに、弾ききった。


弾ききって、ほっとした、その瞬間だった。


ぴん、と。


弦の一本が、わずかに、ずれた。


俺の耳が、即座に捉えた。気持ちが悪い。明確に、気持ちが悪い。さっきまで正しかった音の中に、ひとつだけ、濁ったものが混じっている。


「あ」


ベルナール先生が、何か言いかけた。調律を直しましょう、と言うつもりだったんだと思う。


でも、その前に、俺の指が動いていた。


フレームに埋め込まれた、魔力増幅石。そこに触れる。魔科学ラップハープの調律機能。指先で、ずれた弦の分だけ、感覚を頼りに合わせていく。低い。まだ低い。——ここだ。


ぴん、と弾く。


直った。濁りが、消えた。気持ち悪さが、なくなった。


顔を上げると、ベルナール先生が、また目を見開いていた。


「……自分で、直したんですね」


「うん」


「教わっていないのに」


先生はそれ以上言わずに、丸眼鏡の奥で、何かをじっと考えているような目をしていた。


俺は、ハープを抱え直した。先生が何を考えているのかは、わからなかった。俺はただ、気持ちの悪い音を、気持ちのいい音に戻しただけだ。それ以上のことは、していない。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


その日の夜、最後にもう一度、庭へ出た。


バラの蕾は、もう、固い緑の粒じゃなかった。先っぽが、ほどけかけている。中の赤が、半分くらい見えている。あと少し。あと、何日かで、開く。


九月三日に、間に合う。


両手を蕾の上にかざして、結界に魔力を流した。澄んだ金色の光が、夜の庭にともる。


母さんに、喜んでほしい。


その願いだけを、はっきりと思い浮かべた。教会で覚えた、深さで。


光が、応えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ