第四十五話 ご利益があった件
翌朝、いつものように庭へ出た。
エミリーに花壇の前へ下ろしてもらって、バラの蕾に両手をかざす。母さんのために。絶対に枯らせない。気持ちを、結界へ流し込む。
——あれ。
結界の光が、違った。
昨日までと、色が違う。金色に近かったのが、もっと澄んだ、芯のある金になっている。ぶれていない。輝きの縁が、くっきりしている。
おかしい。やっていることは、昨日と同じはずだ。同じ手つきで、同じだけの魔力を、同じ気持ちで流している。なのに、結界の応え方が違う。
蕾を見る。
固いまま——ではあるけれど。緑の粒の先っぽが、ほんの少しだけ、色づいている。赤い。中に詰まっているものの色が、わずかに透けはじめている。
ほどけてはいない。でも、昨日まではこれもなかった。
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午後のハープでも、同じことが起きた。
三つ目のフレーズ。昨日まで、何度やっても切れていたところ。
弾く。
——つながった。
最初から三つ目まで、ぶつっと切れずに、ひとつの流れになった。指は、昨日と同じ動きをしている。音も、昨日と同じだ。Laの次にSol、間違っていない。でも昨日は、それでも切れていた。今日は、切れない。
もう一度弾いてみる。やっぱり、つながる。
「……」
ベルナール先生が、丸眼鏡の奥で、目を見開いていた。それから、体を揺らして笑った。久しぶりに見る、いつものベルナール先生の笑い方だった。
俺は、ハープを抱えたまま、固まっていた。
何が起きた。
昨日と何も変えていない。練習量を増やしたわけでもない。一晩寝ただけだ。一晩寝て、その前に——
教会に、行った。
待て。まさか。
頭の中で、線がつながりかける。教会に行った。何も起きなかったはずだった。力は降ってこなかった。「まあ、そうか」で終わったはずだった。
なのに、帰った翌日に、バラが色づいて、フレーズがつながる。
これは——ご利益、なのか?
イエス・キリスト。あの名前は、合っていたのか。何も起きなかったように見えて、実は、ちゃんと届いていた。一晩越しに、じわじわ効いてくるタイプの。そういう、奥ゆかしいチートだったのか。
「先生」
「なんですか」
「きょうかい、ごりやく、ある」
ベルナール先生は、きょとんとした。それから、また笑った。
「教会に行かれたんですか。それはそれは。——でも、エリック」
先生は、笑いをおさめて、俺の手元を見た。ハープの弦に置かれた、俺の指を。
「ご利益かどうかは、わたしにはわかりません。神様のことは、わたしの専門ではないので」
それから、ひとつ、付け加えた。
「ただ、ひとつだけ、わかることがあります。今日の三つ目のフレーズは——昨日までと、音が違いました」
音が、違う。
俺は、自分の耳を疑った。違わない。違うわけがない。俺の耳は、ずれた音を一発で見抜く耳だ。今日のLaも、昨日のLaも、同じ高さだった。間違いない。Laは、Laだ。
「先生、おと、おなじ。Laは、La」
「ええ。高さは同じです。あなたの言う通り、一ミリもずれていない」
ベルナール先生は、うなずいた。それから、首を横に振った。
「でも、音は違いました」
意味が、わからなかった。高さが同じなのに、音が違う。そんなことが、あるのか。
「昨日まで、あなたは正しい音を出していました。正しすぎるくらい、正しい音を。——でも、それだけだった」
先生は、自分の胸のあたりを、軽く叩いた。
「今日の音には、行き先がありました。誰かに、聴かせるための音だった。同じLaでも、ただ正しいLaと、誰かに届けたいLaは、違う音なんですよ。あなたは今日、それを弾いた」
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その夜、ベッドの中で、考えていた。
枕元のうさぎは、いつも通りボタンの目をしている。
ベルナール先生の言ったことを、ずっと反芻していた。誰かに届けたい音。行き先のある音。
——心当たりが、ないわけじゃなかった。
教会で、目を閉じたとき。チートの話に逸れる前。いちばん最初に、俺は思い浮かべていた。バラが咲きますように。フレーズがつながりますように。母さんの誕生日が、うまくいきますように。母さんに、喜んでほしい。ハープを、聴かせたい。
あのとき、はっきりと、思い浮かべた。
ステンドグラスの前で、静かな場所で、いつもより深く。何をしたいのか、誰のためなのか。普段は練習に追われて、ぼんやりとしか考えていなかったことを、あの時間、ちゃんと言葉にした。
何をしたいか、はっきり思い浮かべること。
意図の原則。ラファエル先生に、いちばん最初に教わったこと。
——そういう、ことか。
ご利益じゃ、なかった。神の子の真名が効いたわけでも、奥ゆかしいチートが発動したわけでもない。教会で、俺は、自分の願いを、いつもより深く思い浮かべただけだ。それだけのことが、結界の輝きを澄ませて、Laに行き先をくれた。
やったのは、俺だ。神様じゃない。
——とは、思うものの。
それでも、なんとなく。あの場所に行かなかったら、あの時間がなかったら、こうはならなかった気もする。だとしたら、やっぱり、ちょっとはご利益が——いや。
考えるのを、やめた。
どっちでもいい。バラは色づきはじめた。フレーズはつながった。それで、十分だ。
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九月三日が、近づいてきた。
ここからは、時間との勝負だった。そして、隠す相手との勝負でもあった。
母さんに、バレてはいけない。花も、ハープも、誕生日当日まで秘密にしておきたい。サプライズというのは、そういうものだ。前世のドラマでも、サプライズがバレる回はたいてい悲しい空気になっていた。あれにはしたくない。
ところが、これがなかなか難しい。
母さんは、よく俺に話しかけてくる人だ。部屋にもふらっと入ってくる。ハープの練習をしていると、廊下から足音が近づいてくることがある。そのたびに、エミリーがすっと動いて、別の部屋に母さんを案内してくれる。「奥様、こちらのお茶が」とか「お庭の薔薇が」——いや、薔薇は言うな。危ない。
協力者は、エミリーだけじゃなかった。
ベルナール先生は、練習の時間を、母さんが外出している時間に合わせてくれるようになった。庭師は、バラの花壇の前に、さりげなく背の高い鉢植えを置いて、母さんの動線から蕾が見えないようにしてくれた。セリーヌさんは、いつも通りの無表情で、でも俺が花の世話に行く時間を、母さんのお風呂の時間とぶつからないように調整してくれた。
家じゅうが、少しずつ、共犯になっていた。
父さんも、だ。
ある日、廊下で父さんとすれ違った。父さんは、いつもなら俺に何か買ってやろうとする人だ。「エリック、新しい玩具はどうだ」とか「あの絵本を取り寄せようか」とか。でもその日は、違った。
俺の顔を見て、ハープの練習のことも、花のことも、何も聞かなかった。ただ、ひとつだけ言った。
「楽しみにしている」
それだけ言って、行ってしまった。
——父さん、知ってるな。
知っていて、何も手を出さずに、見ている。いつも何かを買い与える父さんが、今回は、俺が自分の手で用意するものを、黙って待っている。
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本番の三日前、予行演習をした。
エミリーと、ベルナール先生だけが見ている前で、ハープを最初から最後まで通す。
最初のフレーズ。二つ目。三つ目——つながる。最後まで、止まらずに、弾ききった。
弾ききって、ほっとした、その瞬間だった。
ぴん、と。
弦の一本が、わずかに、ずれた。
俺の耳が、即座に捉えた。気持ちが悪い。明確に、気持ちが悪い。さっきまで正しかった音の中に、ひとつだけ、濁ったものが混じっている。
「あ」
ベルナール先生が、何か言いかけた。調律を直しましょう、と言うつもりだったんだと思う。
でも、その前に、俺の指が動いていた。
フレームに埋め込まれた、魔力増幅石。そこに触れる。魔科学ラップハープの調律機能。指先で、ずれた弦の分だけ、感覚を頼りに合わせていく。低い。まだ低い。——ここだ。
ぴん、と弾く。
直った。濁りが、消えた。気持ち悪さが、なくなった。
顔を上げると、ベルナール先生が、また目を見開いていた。
「……自分で、直したんですね」
「うん」
「教わっていないのに」
先生はそれ以上言わずに、丸眼鏡の奥で、何かをじっと考えているような目をしていた。
俺は、ハープを抱え直した。先生が何を考えているのかは、わからなかった。俺はただ、気持ちの悪い音を、気持ちのいい音に戻しただけだ。それ以上のことは、していない。
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その日の夜、最後にもう一度、庭へ出た。
バラの蕾は、もう、固い緑の粒じゃなかった。先っぽが、ほどけかけている。中の赤が、半分くらい見えている。あと少し。あと、何日かで、開く。
九月三日に、間に合う。
両手を蕾の上にかざして、結界に魔力を流した。澄んだ金色の光が、夜の庭にともる。
母さんに、喜んでほしい。
その願いだけを、はっきりと思い浮かべた。教会で覚えた、深さで。
光が、応えた。




