第四十四話 俺だけが知っている神の名を唱えて無双してざまあしてハーレムする件
「かみさま、あいたい」
朝ごはんのあと、エミリーの手をつかんで、そう言った。
エミリーの動きが、一瞬止まった。にこにこした顔のまま、目だけが少し丸くなる。
「……神様に、ですか?」
「うん」
「坊っちゃんが、神様に」
「うん」
エミリーはしゃがんで、俺と目の高さを合わせた。それから、何かに感じ入ったみたいに、ゆっくりうなずいた。
「坊っちゃんは、優しい子ですねえ」
——いや、そういうのじゃない。
内心で慌てて否定する。優しさとか、信心とか、そういう綺麗なものじゃない。これはもっと、こう、打算だ。バラが咲かない、フレーズがつながらない、人事は尽くした、だから努力の外の領域に手を出しに行く——そういう、わりと俗っぽい話なんだ。
でも、口からは「うん」しか出ない。
二語、三語。言いたいことの半分も出てこない。だから、エミリーの中で俺は「神様に会いたいなんて言い出す、信心深くて優しい坊っちゃん」になっていく。訂正する手段がない。
——まあ、いいか。
連れて行ってくれるなら、誤解は誤解で。
「奥様にお伝えして、お許しが出たら参りましょうね」
エミリーはそう言って、俺を抱き上げた。
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母さんは、あっさり許可を出した。
それどころか、嬉しそうだった。「エリックが神様に興味を持つなんて」と、頬に手を当てて、ちょっと潤んだ目をしていた。母さんは俺によく話しかける人で、感情がすぐ表に出る。
——ごめん母さん。これは母さんのためのチートを取りに行くんだ、とは、口が裂けても言えない。
裂けるほど口は発達していないし、言ったところで伝わらない。
エミリーの運転する車で、ニースの街の上を抜けていく。空を低く滑りながら、街並みが後ろへ流れていく。眼下に時計台が見えて、市場の屋根が見えて、それからプロムナードの白い手すりが光るのが見えた。エミリーは前を向いて運転しながら、ときどき「あれが時計台ですよ」と教えてくれる。サイボーグの腕がハンドルに添えられていて、動くたびに微かな音を立てる。俺の耳にだけ届く、機械の駆動音と、魔力が流れる音。
街の中心に近づくと、建物が見えてきた。
石造りの、背の高い建物。とがった屋根が、空に向かって伸びている。前世で見た写真と、少し似ていた。でも同じじゃない。壁のところどころに、見たことのない文様が彫り込まれている。屋根の先端が、淡く光っている。魔法で何かしてあるんだろう。
科学と魔法の世界の、祈りの場所。
「着きましたよ。教会です」
エミリーが言った。
教会。やっぱり、そう呼ぶのか。
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中に入ると、空気が変わった。
ひんやりとして、静かで、音が遠くなる。高い天井。長い椅子が、ずらりと前を向いて並んでいる。
正面の壁に、大きなステンドグラスがあった。
色のついたガラスを通して、外の光が差し込んでくる。床に、青や赤や金のまだら模様が落ちている。光の粒が、空気の中をゆっくり漂っているのが見える。埃なのか、魔力なのか、その両方なのか。
——きれいだ。
素直に、そう思った。
ステンドグラスに描かれているのは、人の姿だった。手を広げた誰か。その手から、光が四方に伸びている。顔は、はっきりとは描かれていない。光が強すぎて、滲んでいる。
名もなき救済者。
闇の中に、光をもたらした人。名前は、伝わっていない。
エミリーが、長椅子のひとつに俺を座らせてくれた。自分はその隣に立って、静かにしている。急かさない。にこにこした顔のまま、ただ待っている。
俺は、ステンドグラスを見上げた。
さて。
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ここからが本題だ。
お願いをしに来た。バラが咲きますように。フレーズがつながりますように。母さんの誕生日が、うまくいきますように。——それを、念じればいい。
念じればいい、んだけど。
ふと、引っかかった。
この救済者には、名前がない。誰も知らない。光をもたらした人がいた、ということだけが残って、名前はすっぽり抜け落ちている。食卓の祈りでも「名もなき救済者へ」と唱える。それが当たり前になっている。
——でも。
俺は、知っているかもしれない。
前世の知識。あの世界では、救済者の名前は子供でも知っていた。教科書に載っていた。光をもたらした、神の子。その名前を、俺は——たぶん、覚えている。
心臓が、少し速くなった。
待て。待て待て。これは、まずいことに気づいたんじゃないか。
この世界の誰も知らない名前を、俺だけが知っている。世界中の十字教徒が「名もなき」と呼んでいる相手の、本当の名前を。
それって——チートなんじゃないか?
頭の中で、何かが組み上がっていく。前世のなろう小説で、何度も読んだ展開。隠された真実を主人公だけが知っている。失われた真名を、主人公だけが口にできる。そして真名を知る者にだけ、扉が開く。封印された力。無限の魔力。世界の理に直接触れる権利。
そうだ。そうだったんだ。
ずっと思っていた。俺の魔力は平均値だ。チート?も戦闘向きじゃない。——違った。本命は、これだったんだ。隠されていただけだ。神の子の真名。それを知る、ただ一人の人間。それが俺。
唱えればいい。
心の中で、その名前を唱える。そうすれば、ステンドグラスが光って、声が響いて、力が降ってくる。覚醒する。無双が始まる。剣も魔法も思いのまま、そしてその先には——そうだ、その先には、ハーレムが待っている。前世で読んだあの王道。やりたかったジャンルが、今、ここで、開く。
母さんの誕生日のことは、正直、もう半分くらい頭から飛んでいた。
俺は、目を閉じた。
記憶を、探る。
救済者の名前。神の子の名前。前世で覚えた、あの——
ヤハウェ。
……いや、違う。それはユダヤ教、今世の契約教の方の神様の名前だ。救済者じゃない。
もう一度、探る。
救済者。光をもたらした、神の子。その名前は——
イエス・キリスト。
たぶん、それだ。前世の記憶が、そう言っている。半分は自信があって、半分は怪しい。発音も、つづりも、もしかしたら少しずれているかもしれない。でも、いちばん近いのは、それだ。
心の中で、はっきりと、唱えた。
イエス・キリスト。
光をもたらした、名もなき救済者。あなたの本当の名前を、俺は知っています。だから——
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何も、起きなかった。
ステンドグラスは、ステンドグラスのままだった。光は、さっきと同じ角度で差し込んでいる。床のまだら模様も、動かない。空気の中の光の粒も、変わらないゆっくりさで漂っている。
声は、響かない。
力は、降ってこない。
体の中を探ってみる。覚醒したかもしれない無限の魔力を。——ない。いつも通りの、平均値の魔力が、いつも通りそこにあるだけだ。
俺は、目を開けたまま、しばらくステンドグラスを見上げていた。
一歳七ヶ月の体で、長椅子に座って、ぽかんと天井の方を向いている。
「——まあ、そうか」
小さく、声に出た。
そうだよな。そういうことには、ならないよな。
名前を知っていたって、何も起きない。そもそも、その名前が合っているのかも分からない。前世の記憶頼りの、当て推量だ。合っていたとしても——たぶん、合っていたとしても、何も起きない。
この世界の救済者は、名前を呼ばれたら力をくれる、そういう存在じゃないらしい。光をもたらして、それで、名前も残さずにいなくなった。後のことは、人間がやれ、と。そういう感じの人なんだろう。
無双は、始まらない。
ハーレムも、開かない。
俺は、ただ、教会の長椅子に座っている、平均値の魔力を持った子供のままだ。
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「坊っちゃん」
エミリーの声がした。
見上げると、にこにこした顔が、こっちを見下ろしている。
「ちゃんと、お祈りできましたか?」
お祈り。
——できたか、これは。
俺がやっていたのは、お祈りというより、チートの起動試行だった。神の子の真名で覚醒を狙う、わりと不純な動機の。
でも。
目を閉じていたあの時間、唱える前に、確かに俺は思い浮かべていた。
バラが咲きますように。三つ目のフレーズがつながりますように。母さんの誕生日が、うまくいきますように。母さんに、喜んでほしい。ハープを、聴かせたい。——途中からチートの話に逸れたけれど、いちばん最初に思い浮かべたのは、それだった。
何をしたいか、はっきり思い浮かべること。
ラファエル先生の言葉が、なぜか、ここで頭をよぎった。
「……うん」
俺はうなずいた。
「おいのり、した」
嘘じゃない。たぶん、嘘じゃない。
エミリーは「よかったですねえ」と笑って、俺を抱き上げた。サイボーグの腕の音が、微かに鳴る。
帰り際、もう一度、ステンドグラスを振り返った。
光をもたらした、名もなき誰か。顔は滲んでいて、見えない。名前も、伝わっていない。俺が前世から持ってきた名前が、合っているのかどうかも、わからない。
何ももらえなかった。
——でも。
なんだろう。来る前より、ほんの少しだけ、頭の中が片付いた気がした。
気のせいだろう。たぶん、気のせいだ。
教会の扉が、ゆっくりと閉まった。




