表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

43/56

第四十三話 動かないもの

バラが、咲かない。


朝、いつものように庭へ出る。エミリーに抱っこされて、花壇の前に下ろしてもらう。ひまわりはもう背を伸ばして、太陽みたいな顔をこっちに向けている。ラベンダーは紫の穂をいくつも立てて、風が通るたびに匂いをこぼす。


バラだけが、蕾のままだ。


固く閉じた緑の粒。先週も、その前も、同じ姿。少しもほどける気配がない。


「——おはよう」


声をかけてみる。返事はない。当たり前だ。花は喋らない。それでも声をかけるのは、世話をしている人間のささやかな願掛けみたいなもので——前世のなろう小説でも、植物に話しかける魔女がよく出てきた。あれは雰囲気作りだと思っていたけれど、いざ自分が育てる側になると、つい口が動く。


両手を蕾の上にかざす。


母さんのために。絶対に枯らせない。その気持ちを、結界へ流し込む。


結界がうっすら光る。バラの周りの空気が、金色に近い色を帯びる。意図の原則——何をしたいか、はっきり思い浮かべること。ラファエル先生に教わったやり方は、もう体に馴染んでいる。気持ちを込めれば、結界は応える。輝きの色が変わる。


それは、わかる。


でも、蕾はほどけない。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「坊っちゃん、難しいお顔をしていますよ」


エミリーがしゃがんで、俺の顔を覗き込む。にこにこしている。エミリーはいつもにこにこしている。霧笛のエミリー、プロの護衛。なのに、編み物をするときの手つきはやわらかい。


「ばら、さかない」


二語。三語。最近ようやく、言いたいことの半分くらいは口から出るようになった。


頭の中ではもっと喋っている。バラだけ結界の魔力消費が重い、たぶん花の性質か品種の差で、ひまわりやラベンダーと同じ感覚で魔力を流しても足りていない——そういう分析が、内側ではすらすら流れる。


口から出るのは、「ばら、さかない」。


もどかしい。けれど、これはこれで仕方がない。口の中の作りが、まだ前世の俺に追いついていない。


「お花にも、お花の都合があるのかもしれませんねえ」


エミリーがそう言って、俺の頭を撫でた。


お花の都合。


——そうかもしれない。そうなんだろう。でも、母さんの誕生日には、お花の都合は関係ないんだ。九月三日は、ほどけてくれないと困る。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


午後はハープだった。


魔科学ラップハープ。ベルナール先生から渡された一級品。フレームが軽くて、落としても壊れない。弦を弾くと、フレームのルーンが淡く光る。弾いた音の高さに合わせて、光の色が変わる。


母さんの誕生日に、ハッピーバースデーを弾く。それが計画だ。


最初のフレーズは、もう問題ない。二つ目も、指が覚えた。


三つ目で、止まる。


弦を押さえる。弾く。音は出る。高さも合っている。俺の耳がそう言っている。Laだ。次はその下のSol——間違っていない。一音ずつ確かめれば、どれも正しい。


なのに、つながらない。


最初から三つ目まで通して弾くと、三つ目のところで、何かがぶつっと切れる。音は鳴っているのに、フレーズになってくれない。


「もう一度」


ベルナール先生は、いつものように体を揺らして笑う……はずなのに、今日は笑わなかった。腕を組んで、丸眼鏡の奥でじっと俺の手元を見ている。


弾く。三つ目。切れる。


「先生、おと、あってる」


合っている。一つも外していない。それは自信を持って言える。俺の耳は、ずれた弦を一発で見抜く耳だ。自分の出している音が正しいかどうかくらい、わかる。


「ええ。合っていますとも」


ベルナール先生はうなずいた。それから、何か言いかけて——やめた。


「合っているのに、何かが足りない。今日はそういう日です」


それだけ言って、また腕を組んだ。


足りない。何が。


音は合っている。指も動いている。練習もしている。それ以上、何を足せばいいのか、俺にはわからなかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


夜、ベッドの中で考える。


枕元には、エミリーがくれた手編みのうさぎがいる。白い毛糸の、丸っこいうさぎ。耳が少し長い。目はボタン。これを見ていると、少し落ち着く。


落ち着いて、それで——行き詰まっていることが、はっきりする。


バラは咲かない。三つ目のフレーズはつながらない。


おかしい。俺はやることをやっている。毎朝、結界に魔力を流している。じょうろで水もやっている。ハープは毎日触っている。指は動く。音は合っている。


人事は尽くしている。尽くしているのに、動かないものがある。


前世のなろう小説なら、こういうときに、何かが起きた。主人公が壁にぶつかると、都合よく助けが入る。隠された力に目覚める。誰かが秘訣を授けてくれる。天から何かが降ってくる。


——降ってこないかな。


本気で思ったわけじゃない。半分は冗談だ。でも半分は、本気だった。


努力でどうにかなる範囲は、もうやった。だとしたら、残っているのは努力の外の領域なんじゃないか。運とか、縁とか、巡り合わせとか。そういう、自分ではどうにもできないものに、頼るしかない領域。


そういえば。


この世界で、そういうものにお願いする場所が、あったはずだ。


毎晩、食卓でやっている。食事の前に、家族みんなで手を組んで、短い祈りを唱える。母さんが俺の手をそっと包んで、一緒に唱えてくれる。


光をもたらした救済者へ。名もなき、その人へ。


——名もなき。


そう。この世界の救済者には、名前がない。正確には、伝わっていない。光をもたらした人がいた、ということだけが残って、その人が何という名前だったかは、誰も知らない。だから祈りでは「名もなき救済者」と呼ぶ。


最初にそれを知ったときは、不思議な感じがした。前世だったら、救済者の名前なんて、子供でも知っていた。教科書にも載っていた。それがこの世界では、すっぽり抜け落ちている。


でも、もう慣れた。食卓の祈りは、毎日のことだ。手を組んで、名もなき救済者へ、と唱える。それが当たり前になっている。


前世の俺は、特に信仰なんて持っていなかった。日本人で、初詣には行くけれど、それくらい。神様にお願いごとをするなんて、受験のときくらいだったと思う。


それが今は、毎晩祈っている。母さんと手をつないで。


——俺も、立派な十字教徒だな。


自分で思って、ちょっとおかしくなった。転生して一年半。気づけば、ずいぶんこの世界の人間になっている。


笑って、それから、考えが戻ってくる。


祈る場所。食卓じゃなくて、ちゃんとした、祈るための場所。


前世でいう、教会みたいなもの。それが、この世界にもあるはずだ。冬至祭りのとき、街が光で飾られていた。あれだけ祭りがあるなら、祈る建物だってあるに決まっている。


行ったことが、ない。


一歳七ヶ月。生まれてから、まだ一度も、そういう場所には連れて行かれていない。


バラは咲かない。フレーズはつながらない。人事は尽くした。


だったら——一度、行ってみてもいいんじゃないか。


努力の外の領域に、お願いをしに。


うさぎのボタンの目が、暗がりでこっちを見ている。返事はしない。当たり前だ。うさぎは喋らない。


それでも俺は、なんとなく決めた。


母さんに会う前に、神様に会いに行こう。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ