第四十三話 動かないもの
バラが、咲かない。
朝、いつものように庭へ出る。エミリーに抱っこされて、花壇の前に下ろしてもらう。ひまわりはもう背を伸ばして、太陽みたいな顔をこっちに向けている。ラベンダーは紫の穂をいくつも立てて、風が通るたびに匂いをこぼす。
バラだけが、蕾のままだ。
固く閉じた緑の粒。先週も、その前も、同じ姿。少しもほどける気配がない。
「——おはよう」
声をかけてみる。返事はない。当たり前だ。花は喋らない。それでも声をかけるのは、世話をしている人間のささやかな願掛けみたいなもので——前世のなろう小説でも、植物に話しかける魔女がよく出てきた。あれは雰囲気作りだと思っていたけれど、いざ自分が育てる側になると、つい口が動く。
両手を蕾の上にかざす。
母さんのために。絶対に枯らせない。その気持ちを、結界へ流し込む。
結界がうっすら光る。バラの周りの空気が、金色に近い色を帯びる。意図の原則——何をしたいか、はっきり思い浮かべること。ラファエル先生に教わったやり方は、もう体に馴染んでいる。気持ちを込めれば、結界は応える。輝きの色が変わる。
それは、わかる。
でも、蕾はほどけない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「坊っちゃん、難しいお顔をしていますよ」
エミリーがしゃがんで、俺の顔を覗き込む。にこにこしている。エミリーはいつもにこにこしている。霧笛のエミリー、プロの護衛。なのに、編み物をするときの手つきはやわらかい。
「ばら、さかない」
二語。三語。最近ようやく、言いたいことの半分くらいは口から出るようになった。
頭の中ではもっと喋っている。バラだけ結界の魔力消費が重い、たぶん花の性質か品種の差で、ひまわりやラベンダーと同じ感覚で魔力を流しても足りていない——そういう分析が、内側ではすらすら流れる。
口から出るのは、「ばら、さかない」。
もどかしい。けれど、これはこれで仕方がない。口の中の作りが、まだ前世の俺に追いついていない。
「お花にも、お花の都合があるのかもしれませんねえ」
エミリーがそう言って、俺の頭を撫でた。
お花の都合。
——そうかもしれない。そうなんだろう。でも、母さんの誕生日には、お花の都合は関係ないんだ。九月三日は、ほどけてくれないと困る。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
午後はハープだった。
魔科学ラップハープ。ベルナール先生から渡された一級品。フレームが軽くて、落としても壊れない。弦を弾くと、フレームのルーンが淡く光る。弾いた音の高さに合わせて、光の色が変わる。
母さんの誕生日に、ハッピーバースデーを弾く。それが計画だ。
最初のフレーズは、もう問題ない。二つ目も、指が覚えた。
三つ目で、止まる。
弦を押さえる。弾く。音は出る。高さも合っている。俺の耳がそう言っている。Laだ。次はその下のSol——間違っていない。一音ずつ確かめれば、どれも正しい。
なのに、つながらない。
最初から三つ目まで通して弾くと、三つ目のところで、何かがぶつっと切れる。音は鳴っているのに、フレーズになってくれない。
「もう一度」
ベルナール先生は、いつものように体を揺らして笑う……はずなのに、今日は笑わなかった。腕を組んで、丸眼鏡の奥でじっと俺の手元を見ている。
弾く。三つ目。切れる。
「先生、おと、あってる」
合っている。一つも外していない。それは自信を持って言える。俺の耳は、ずれた弦を一発で見抜く耳だ。自分の出している音が正しいかどうかくらい、わかる。
「ええ。合っていますとも」
ベルナール先生はうなずいた。それから、何か言いかけて——やめた。
「合っているのに、何かが足りない。今日はそういう日です」
それだけ言って、また腕を組んだ。
足りない。何が。
音は合っている。指も動いている。練習もしている。それ以上、何を足せばいいのか、俺にはわからなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
夜、ベッドの中で考える。
枕元には、エミリーがくれた手編みのうさぎがいる。白い毛糸の、丸っこいうさぎ。耳が少し長い。目はボタン。これを見ていると、少し落ち着く。
落ち着いて、それで——行き詰まっていることが、はっきりする。
バラは咲かない。三つ目のフレーズはつながらない。
おかしい。俺はやることをやっている。毎朝、結界に魔力を流している。じょうろで水もやっている。ハープは毎日触っている。指は動く。音は合っている。
人事は尽くしている。尽くしているのに、動かないものがある。
前世のなろう小説なら、こういうときに、何かが起きた。主人公が壁にぶつかると、都合よく助けが入る。隠された力に目覚める。誰かが秘訣を授けてくれる。天から何かが降ってくる。
——降ってこないかな。
本気で思ったわけじゃない。半分は冗談だ。でも半分は、本気だった。
努力でどうにかなる範囲は、もうやった。だとしたら、残っているのは努力の外の領域なんじゃないか。運とか、縁とか、巡り合わせとか。そういう、自分ではどうにもできないものに、頼るしかない領域。
そういえば。
この世界で、そういうものにお願いする場所が、あったはずだ。
毎晩、食卓でやっている。食事の前に、家族みんなで手を組んで、短い祈りを唱える。母さんが俺の手をそっと包んで、一緒に唱えてくれる。
光をもたらした救済者へ。名もなき、その人へ。
——名もなき。
そう。この世界の救済者には、名前がない。正確には、伝わっていない。光をもたらした人がいた、ということだけが残って、その人が何という名前だったかは、誰も知らない。だから祈りでは「名もなき救済者」と呼ぶ。
最初にそれを知ったときは、不思議な感じがした。前世だったら、救済者の名前なんて、子供でも知っていた。教科書にも載っていた。それがこの世界では、すっぽり抜け落ちている。
でも、もう慣れた。食卓の祈りは、毎日のことだ。手を組んで、名もなき救済者へ、と唱える。それが当たり前になっている。
前世の俺は、特に信仰なんて持っていなかった。日本人で、初詣には行くけれど、それくらい。神様にお願いごとをするなんて、受験のときくらいだったと思う。
それが今は、毎晩祈っている。母さんと手をつないで。
——俺も、立派な十字教徒だな。
自分で思って、ちょっとおかしくなった。転生して一年半。気づけば、ずいぶんこの世界の人間になっている。
笑って、それから、考えが戻ってくる。
祈る場所。食卓じゃなくて、ちゃんとした、祈るための場所。
前世でいう、教会みたいなもの。それが、この世界にもあるはずだ。冬至祭りのとき、街が光で飾られていた。あれだけ祭りがあるなら、祈る建物だってあるに決まっている。
行ったことが、ない。
一歳七ヶ月。生まれてから、まだ一度も、そういう場所には連れて行かれていない。
バラは咲かない。フレーズはつながらない。人事は尽くした。
だったら——一度、行ってみてもいいんじゃないか。
努力の外の領域に、お願いをしに。
うさぎのボタンの目が、暗がりでこっちを見ている。返事はしない。当たり前だ。うさぎは喋らない。
それでも俺は、なんとなく決めた。
母さんに会う前に、神様に会いに行こう。




