第三十六話 ハッピーバースデー計画と音が見える件
三人の先生が来るようになって、しばらく経った。
語学のジュリアン先生とは、フランス語と英語を中心にやっている。
英語は前世からの貯金があるのでほぼ問題ない。
問題はフランス語だ。
男性名詞と女性名詞の区別が、いまだに体に馴染まない。
「テーブル」が男性名詞で「椅子」が女性名詞、その理由を聞いたら「そういうものです」と言われた。
——そういうものか。
魔力のラファエル先生とは、意図の原則を中心に練習している。
「何をしたいかはっきり思い浮かべること」。
シンプルなようで、1歳の体でやるのはなかなか難しい。
それでも球体おもちゃで鍛えた下地があるせいか、ラファエル先生には「悪くない」と言われている。
褒めなさそうな人に「悪くない」と言われると、なぜか素直に嬉しい。
で、意外なことに。
一番順調なのが音楽だった。
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前回のベルナール先生の授業で、音階と音の対応を教わった。
ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ。フランス語ではDo・Ré・Mi・Fa・Sol・La・Si。
その瞬間、何かがかちりとはまった感覚があった。
——あ、これか。
ずっと前から、音を聞くたびに「何か」が聞こえていた。ピアノの鍵盤を叩くたびに、窓の外で鳥が鳴くたびに、エミリーの笑い声を聞くたびに。
頭の中で何かが反応していた。
でも音階を知らなかったから、ずっとそのままにしていた。
名前がついた瞬間に、全部繋がった。
あの音はLa。あの音はRé。じゃらーんと全鍵盤を鳴らしたとき、一音だけ音が揺れてうねっていた。
ファの弦だった。
自然に緩んだのか、他は問題ないのにその一音だけが少し低かった気がする。
——だから気持ち悪かったのか。
前世ではこんな感覚はなかった。
音楽の授業で音符を読む程度で、特別な耳を持っているとは思ったこともなかった。
この体に最初からこれがあったらしい。
つまり俺には絶対音感がある。
しばらく考えた。
——戦闘に役立つような、役立たないような。
だが、魔力にも音があるかもしれない。
属性が分かったり、魔力そのものの音で相手の魔法を先読みできるかもしれない。
——まあ、それは追い追い考えるとして。
今は母さんの誕生日が先だ。
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母さんの誕生日は9月3日だ。今が5月だから、約4ヶ月ある。
ハッピーバースデーは音楽の中でも最もシンプルな曲の部類に入る。
大人なら楽譜を見て数分練習すれば弾ける。
前世の俺でも、ピアノ経験ゼロでも、たぶん30分あれば形になった。
問題は俺が赤ん坊だということだ。
音は分かる。どの鍵盤を押せばいいかも分かる。
頭の中では完璧に鳴っている。
でも指が、言うことを聞かない。
そもそも指が短い。
力が弱い。
両手を別々に動かすなど夢のまた夢で、今は指一本でメロディーラインを追うだけで精一杯だ。
音は見えているのに体が追いつかない、という独特の苦しさがある。
——才能と体のスペックが噛み合っていない。
ベルナール先生に相談することにした。
「……バースデー。ママ。ピアノ」
ベルナール先生が目を輝かせた。
「素晴らしい!!お母様の誕生日にハッピーバースデーを弾きたいということですか!」
——正解だ。よく分かったな。
ベルナール先生がぶるぶると震えた。
大柄な体が揺れるたびに、丸眼鏡がずれた。
「素晴らしい!!」
もう一回言った。
「指一本から始めましょう、エリック!それで十分です!音が分かるあなたなら必ずできる!」
俺は鍵盤に指一本を乗せた。
ハッピーバースデー計画、開始だ。




