第三十三話 何って、鍵盤を押しているだけだが?
音楽の先生が来る日だ。
チャイムが鳴った。エミリーが出迎えた。扉が開いた。
大きな声だった。
「アントワーヌ・ベルナールです、よろしく!」
居間に入ってきた。体が大きかった。白髪混じりの巻き毛だった。丸眼鏡だった。よく笑った。笑うたびに体全体が揺れた。
エミリーがにこにこしていた。いつもより少し引き気味のにこにこだった。
——賑やかな先生だ。
ジュリアンとは全然違うタイプだった。ジュリアンは穏やかだった。この人は違った。居間の空気が、入ってきた瞬間に変わった。
ベルナールが俺を見た。
「君がエリックくんか! よろしく!」
大きな声だった。
俺は少し間を置いた。
「......よろしく」
と答えた。
ベルナールが笑った。体全体で笑った。
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居間の奥に、グランドピアノがあった。
この家に来てから、ずっとそこにあった。存在は知っていた。でも近づいたことがなかった。大きかった。黒かった。蓋が閉まっていた。
ベルナールがピアノの前に座った。蓋を開けた。鍵盤が出てきた。白と黒が並んでいた。
俺を膝に乗せた。
鍵盤が目の前にあった。
「まず触ってみて」
ベルナールが言った。
俺は鍵盤を横になぞった。
じゃらーんと音が出た。
ベルナールが一瞬止まった。
何も言わなかった。表情が少し変わったが、すぐ戻した。
俺も止まった。
音の中に、一つだけ他と馴染まない音があった。浮いている感じがした。何が違うのかはわからなかった。でも違った。
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ベルナールが立ち上がった。
「今日はこっちで弾こうか」
鞄から薄い板を取り出した。広げた。ホログラムの鍵盤が浮き上がった。本物の鍵盤と同じ形だった。光っていた。
——便利だ。
ベルナールがホログラムキーボードの設置を始めた。
俺はその間、ピアノの鍵盤を見ていた。
——さっきの音はどこだ。
一音ずつ押した。
違う。
次。
違う。
次。
——これだ。
浮いていた。他の音と馴染まなかった。この弦だけ何かがずれている感じがした。
もう一度押した。
やっぱりこれだった。
もう一度押した。
「——君」
ベルナールが振り返っていた。
設置の手が止まっていた。
「今、何をしている」
俺は鍵盤を見た。
——何って、鍵盤を押しているだけだが。
ベルナールが近づいてきた。俺の隣にしゃがんだ。
「その音が、気になるのか」
俺はもう一度その鍵盤を押した。
ベルナールが静かになった。さっきまでの大きな声ではなかった。
「……そこだけ、ほんの少し調律が狂っているんだ」
しばらく、俺を見ていた。
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ベルナールが立ち上がった。
ホログラムキーボードの前に座った。俺をまた膝に乗せた。
「じゃあ、こっちで始めよう」
ホログラムの鍵盤を弾き始めた。
音が出た。
——綺麗だった。
さっきのピアノとは違った。全部の音が均一だった。浮いている音がなかった。全部が馴染んでいた。
ベルナールが簡単なメロディーを弾いた。ゆっくりだった。一音一音丁寧だった。
俺は聞いていた。
——同じ音が二回出た。
——あの音とこの音は違う。
——この二つは近い。でも同じじゃない。
音が聞こえるたびに、頭の中で何かが整理されていく感じがした。何を整理しているのかはわからなかった。ただ、聞こえた。全部聞こえた。
ベルナールが弾き終わった。
「どうだった?」
俺は少し間を置いた。
「さっきの音とちがった」
と答えた。
ベルナールが笑った。また体全体で笑った。
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授業が終わった。
ベルナールが父さんに話しかけていた。声が大きかった。隣の部屋まで聞こえた。
「この子は本物ですよ」
父さんが何か答えた。
「調律のずれた弦を、一発で見つけました。一発で」
また父さんが何か答えた。
「音楽をやらせてください。必ず。絶対に」
父さんが笑っていた。
俺はエミリーに抱かれたまま、遠くでそれを聞いていた。
——この音だけ浮いている、とわかっただけなんだが。
ベルナールがまた居間に戻ってきた。俺を見た。目が輝いていた。丸眼鏡の奥で輝いていた。
「エリックくん、また来週来るよ。楽しみにしていてくれ」
笑顔だった。体全体の笑顔だった。
——来週も来るのか。




