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第三十二話 父の誕生日と俺の名前の由来の件

朝から家の雰囲気が違った。


エミリーが忙しそうに動いていた。使用人たちが廊下を行き来していた。台所から音がしていた。料理長が何か作っているらしかった。


今日は父さんの誕生日だと聞いていた。


でも、それだけじゃない気がした。いつもより人が多かった。いつもより空気が張っていた。


——何かある。


エミリーが「今日はお祖父様とお祖母様がいらっしゃいますよ」と言った。


にこにこしていた。


——祖父母か。


初めてだった。この家に来てから、祖父母と会ったことはなかった。チベットで長期の調査をしていると、どこかで聞いた気がした。それが終わって戻ってきたらしかった。


——どんな人だろう。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


チャイムが鳴った。


エミリーが出迎えた。扉が開く音がした。声が聞こえた。


老夫婦だった。


男性の方が背が高かった。白髪だった。姿勢が良かった。威厳があった。でも目が優しかった。アルマン父さんに似ていた。


女性の方は小柄だった。白髪を上品にまとめていた。顔に皺があった。でも笑顔が温かかった。


父さんが出迎えた。


「父さん、母さん、久しぶりだ」


声が、いつもより柔らかかった。


老人が父さんの肩を叩いた。


「元気そうだな」


それだけ言った。でも十分だった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


祖父が俺を見た。


歩み寄ってきた。しゃがんだ。目線を合わせた。


しばらく、俺を見ていた。


それから、笑った。


「エリック」


と呼んだ。


——俺の名前を知っている。当たり前か。


父さんが言った。


「父さんの名前を受け継いだんだ」


——待って。


祖父の名前。エリック。


——俺と同じ名前だ。


——三代目だったのか、俺。


祖父がにこにこしていた。俺はしばらく祖父を見ていた。


白髪だった。皺があった。でも目が優しかった。


——悪くない祖父だ。


最初の印象はそれだけだった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


祖母のコレットが俺を抱き上げた。


早かった。祖父より先だった。


「かわいい」


フランス語で言った。頬ずりされた。柔らかかった。いい匂いがした。


「エリック、エリック」


名前を繰り返した。嬉しそうだった。


——祖母か。


コレットはしばらく俺を抱いたまま離さなかった。頬ずりを続けた。母さんが笑っていた。父さんも笑っていた。祖父だけが「コレット、そのくらいにしなさい」と言った。


コレットは離さなかった。


——強い祖母だ。


俺はされるがままだった。抵抗する理由もなかった。温かかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


食卓に全員が集まった。


料理長が特別メニューを用意していた。次々と運ばれてきた。


口に入れた。


——違う。


絶対味覚が反応した。いつもと違う。格が違う。素材が違う。手間が違う。ブイヨンの深みがいつもの倍以上あった。何時間煮込んだんだ。野菜の甘みの引き出し方が丁寧だった。バターの使い方が繊細だった。


——料理長、本気を出した。


普段も十分おいしかった。でも今日は別物だった。誕生日の料理はこういうものか。


祖父が食事しながら父さんと話していた。チベットの話だった。


「大成功だった」


祖父が言った。声に力があった。穏やかそうな老人が、この話になると目が輝いていた。


「現地の協力者がいてね。想像以上のものが見つかった」


父さんが頷いた。


「例のものは届いた。保管してある」


——例のもの。


何のことかわからなかった。エネルギー源、とだけ聞こえた。あとは難しくて拾えなかった。


祖父がグラスを上げた。


「久しぶりに家族が揃った。それだけで十分だ」


父さんが笑った。母さんも笑った。


——久しぶりの再会か。


グラスが合わさる音がした。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


食事が終わった。


コレットがまた俺を抱き上げた。さっきより自然だった。もう慣れていた。


「エリック、おいで」


居間のソファに座った。膝の上に乗せられた。温かかった。


「チベットにいる間、ずっと会いたかったのよ」


フランス語だった。ゆっくり話してくれた。聞き取りやすかった。


「写真は見ていたけれど、やっぱり会わないとね」


——写真を見ていたのか。


知らなかった。こちらの様子が送られていたらしかった。チベットにいる間も、俺のことを気にしていたということか。


コレットが髪を撫でた。


「大きくなったわね」


——大きくなった。そうか。


お菓子を渡された。


口に入れた。


——甘い。


絶対味覚が反応した。砂糖の質が違った。バターの風味が深かった。どこかの高級品だった。チベットから持ち帰ったものかもしれなかった。


でも、それより——


コレットが温かかった。膝の上が温かかった。それだけだった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


帰り際、祖父が俺の前にしゃがんだ。


また目線を合わせた。


しばらく見ていた。


「大きくなれよ、エリック」


と言った。


——同じ名前だ。


三代目のエリックに、初代のエリックが言った言葉だった。


俺は少し間を置いた。


「うん」


と答えた。


祖父が笑った。


コレットがまた頬ずりした。


母さんが「また来てね」と言った。父さんが玄関まで見送った。扉が閉まった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


静かになった。


エミリーが片付けを始めた。使用人たちが動いていた。


俺は居間のソファに座ったまま、今日のことを整理した。


祖父はエリックという名前だった。三代目だった。チベットで何かを見つけた。例のもの、と父さんが言っていた。正体はわからなかった。


祖母のコレットは温かかった。お菓子をくれた。頬ずりが多かった。


——悪くない祖父母だった。


父さんの誕生日に、何もできなかった。


——次は何かしよう。


母さんの誕生日は9月だ。まだ時間がある。フランス語も、もう少し上達する。音楽も始まる。


——やることは決まった。


エミリーがソファの隣に来た。


「よい一日でしたね、坊っちゃん」


にこにこしていた。


——よい一日だった。


悪くなかった。

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