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第三十一話 語学の先生と指輪

今日、語学の先生が来ると聞いていた。


エミリーが朝から準備をしていた。テーブルを拭いた。椅子を並べた。飲み物を用意した。いつものにこにこだったが、少し丁寧に動いていた。


俺はそれを見ながら考えた。


語学のプロだ。複数言語を扱える。富裕層の家庭教師として父さんが選んだ人間だ。優秀なはずだ。


——どんな人だろう。


漠然と、優しくて笑顔が素敵な女性を想像していた。理由はなかった。語学の先生というイメージがそうさせた。ただそんな気がしていた。


エミリーが「もうすぐいらっしゃいますよ」と言った。


にこにこしていた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


玄関のチャイムが鳴った。


エミリーが出迎えた。扉が開く音がした。声が聞こえた。


——男の声だった。


背が高かった。明るい茶色の髪だった。清潔感があった。居間に入ってきて、俺を見て、人懐っこい笑顔になった。


「エリック、よろしくね」


フランス語だった。発音が綺麗だった。


——男の先生だった。


特に問題はなかった。ただ、想像と違った。


「ジュリアン・マルティネスです」


父さんに挨拶した。母さんに挨拶した。丁寧だった。落ち着いていた。28歳には見えなかった。もう少し若く見えた。


——悪くなさそうだ。


最初の印象はそれだけだった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


ジュリアンがエミリーに挨拶した。


「エミリーさん、よろしくお願いします」


笑顔だった。距離が近かった。エミリーがにこにこしながら答えた。


——危ない。


俺は目を細めた。


エミリーは護衛だ。強い。霧を使える。バンシーのニアと契約している。戦闘力は高い。でもこういう方向の接近には——対応できるのか。にこにこしているだけでは——


ジュリアンが左手でテーブルに資料を置いた。


光った。


指輪だった。


左手薬指だった。細いシルバーの指輪だった。シンプルだった。でも確かにあった。


——既婚者か。


俺は目を細めるのをやめた。


問題なかった。何も問題なかった。最初から問題などなかった。


エミリーがにこにこしたままジュリアンに飲み物を渡した。ジュリアンが「ありがとうございます」と言った。


——何も問題なかった。


俺は視線を窓の外に移した。


噴水が青く光っていた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


ジュリアンが椅子に座った。俺の前にテーブルを挟んで向かい合った。


「じゃあ、始めようか」


絵本を取り出した。薄かった。ホログラム対応らしかった。開くと立体的な絵が浮き上がった。ルミとネルギーより本格的だった。色が鮮やかだった。


「これは何かわかる?」


ジュリアンが絵を指差した。木が描いてあった。


「アルブル」


ジュリアンが言った。


——アルブル。


待った。木はle boisじゃなかったか。エミリーが絵本を読んでくれたとき、そう聞こえた。


——別の言い方があるのか。


同じものに複数の呼び方がある。英語にもそういう単語はあった。フランス語も同じらしかった。覚えておくことにした。


次のページに進んだ。家が描いてあった。


「メゾン」


——メゾン。


次は花だった。


「フルール」


——フルール。


ジュリアンはゆっくり話した。俺の反応を見ながら進めた。急がなかった。子供の扱いが上手かった。

俺は素直に反応した。知っている単語も、少し間を置いてから答えた。富裕層の早期教育なら不思議ではない範囲に収めた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


しばらくして、ジュリアンが別のページを開いた。


単語が並んでいた。絵と一緒に文字が書いてあった。


——待って。


知っている音がした。


「ナシオン(nation)」


英語のnationと同じだ。


「リベルテ(liberté)」


libertyに近い。最後が違うだけだ。


「アート(art)」


そのままだった。一文字も変わっていなかった。


——似ている。


タブレットで苦労していた。フランス語は難しいと思っていた。文字が読めなかった。単語がわからなかった。でも英語の知識を持って向き合うと、見え方が違った。同じ音、似た構造、共通の語彙。全部が少しずつ繋がり始めた。


——フランス語習得までの道は、意外と近いかもしれない。


ジュリアンが次のページを開いた。


「エリック、これは?」


絵を指差した。


俺は少し間を置いてから、答えた。


ジュリアンが笑った。


「正解。飲み込みが早いね」


——早すぎないくらいには、早かった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


授業が終わった。


一時間くらいだった。思ったより早かった。集中していたからかもしれなかった。


ジュリアンが絵本を閉じた。ホログラムが消えた。


「今日はここまでにしよう」


立ち上がった。背が高かった。改めて見ると高かった。


「エリック、よく頑張ったね。また来週」


笑顔だった。人懐っこい笑顔だった。


エミリーが玄関まで見送った。扉が閉まった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


俺はテーブルの上を見た。


絵本が置いてあった。ジュリアンが忘れていったらしかった。いや、置いていったのかもしれなかった。


表紙を見た。木の絵だった。


——アルブル。


le boisとは別の言い方だ。同じ木でも呼び方が違う。フランス語はそういう言語らしかった。


英語に似た単語が多い。名詞に男女がある。発音が独特だ。でも——


——思ったより、やれる気がする。


エミリーが戻ってきた。いつものにこにこだった。


「ジュリアン先生、感じの良い方でしたね」


俺はエミリーを見た。


——感じは良かった。既婚だった。何も問題なかった。


「うん」


と答えた。


エミリーがにこにこしたまま絵本を片付けた。


——来週も来る。


悪くなかった。

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