第三十話 教育方針と実力を隠す件
廊下をよちよち歩いていた。
居間の方から声が聞こえた。父さんと母さんの声だった。扉が少し開いていた。
聞くつもりはなかった。
でも足が止まった。
——聞こえてしまった。
盗み聞きという自覚はあった。でも足が動かなかった。廊下に立ったまま、聞いた。
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「そろそろ語学を始めようか」
父さんの声だった。
「フランス語の読み書きも正式に始めよう。英語は早めに始めた方がいい。スペイン語も。中国語も候補に入れておこう」
母さんが何か答えた。同意しているようだった。
——英語なら得意だ。
こらえた。
ガッツポーズはこらえた。廊下に一人だった。でもドローンがある。どこかに小さなドローンが浮いているかもしれなかった。こらえた。
前世では英語を使う機会が多かった。商社勤めだった。海外取引先との交渉も担当していた。ビジネス英語なら問題なかった。日常会話も問題なかった。
ただ——
——1歳の子供が英語を得意でも、おかしくはないか。
考えた。富裕層の家庭では早期語学教育が普通だ。早く習得しても不思議ではない。転生バレにはならないはずだ。
——問題ない。
結論を出した。
スペイン語は前世でほぼ触れていなかった。そちらは素直に学べばいい。フランス語の読み書きは——早く始めたかった。
——悪くない。
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「音楽も早めに始めた方がいい」
父さんの声が続いた。
「ピアノがいいだろう」
母さんが何か言った。賛成しているようだった。
——ピアノか。
前世では弾いたことがなかった。サラリーマン時代は楽器とは無縁だった。カラオケには行った。でも楽器は触ったことがなかった。
——富裕層はそういう教育もするのか。
特別な感慨はなかった。ただ、そういうものらしかった。富裕層の子供はピアノを弾く。そういうものなのかもしれなかった。
母さんがまた何か言った。
父さんが答えた。
「先生を探そう」
——先生が来るのか。
外から人が来る。知らない人が来る。情報が増える。この家以外の人間と接触できる。
——悪くない。
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「魔力トレーニングも正式に始めよう」
父さんの声が続いた。
「先生を呼ぼう。独学では限界がある」
——独学では限界がある。
廊下で静止した。
独学でやっていた。最近は光るおもちゃで毎日やっていた。魔力を込めて、光らせて、また込めて。それを繰り返していた。成果はあった。最初より長く光らせられるようになっていた。
でも正しいやり方かどうかはわからなかった。
——正式な先生が来るのか。
教えてもらえる。正しいやり方を教えてもらえる。独学でやっていた部分が整理される。情報が増える。
——悪くない。
母さんが何か言った。心配しているような声だった。魔力トレーニングは体に負担がかかるらしかった。先生を選ぶ必要がある、という話になっていた。
父さんが答えた。
「慎重に選ぶ。焦る必要はない」
——焦る必要はない。
父さんの声は落ち着いていた。いつも落ち着いていた。
俺はしばらく廊下に立っていた。
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居間の声が止まった。
俺はそっと廊下を戻った。
四つの語学と音楽と魔力トレーニングが一度に始まる。
——悪くない条件が揃っている。
実力を隠すつもりはなかった。
前世で読んでいたなろう小説に、実力を隠して無能を演じる主人公がよく出てきた。隠しているうちに追放されて、実は有能だったと判明する展開だ。あれが嫌いだった。なんで実力があるのにわざわざ隠すんだ、といつも思っていた。
——まあ、納得できる内容のものも中にはあったが。
そういうものは結局最後まで読んでしまった。それはそれとして。
中国語の実力だけは、隠すことにした。
商社時代に業務で使っていた。日常会話程度なら問題なかった。でも1歳の子供が中国語を話せたら、さすがにおかしい。英語は早期教育で説明がつく。でも中国語まで得意となると——
——なろう小説に中国語の実力から転生者バレするやつはいないと思うが。
念のためだ。念のため。
語学は英語が早く進むかもしれない。魔力は独学の蓄積がある。でも先生が来れば正しいやり方がわかる。ピアノは未知数だ。
——やることは決まった。
廊下の突き当たりまで歩いた。
窓から庭が見えた。噴水が青く光っていた。
俺は窓の外を見た。
——やっていこう。
それだけ思った。




