第二十五話 よちよち歩きとエミリーの誕生日
歩くのは、思ったより難しかった。
つかまり立ちはできる。壁に手をついて、立っていられる。それはわかった。問題はそこから先だ。手を離した瞬間に、体がどこかへ行こうとする。前でも後ろでもなく、なんとなく斜めに。
——なぜ斜めなんだ。
エミリーが両手を広げて待っていた。
距離にして一メートルくらいだった。普通に歩けば二歩か三歩の距離だ。前世の俺なら目をつむっても辿り着ける。
壁から手を離した。
一歩目、出た。
二歩目、出た。
三歩目——
——あ。
転んだ。
床が近かった。というより俺が床に近づいた。ゆっくりと、しかし確実に。受け身を取ろうとしたが、体が言うことを聞かなかった。前世の反射神経と今の体の間に、深くて暗い溝があった。
「まあ、坊っちゃん。お上手ですよ」
エミリーがにこにこしながら言った。
——全然上手くない。
俺は床から天井を見た。
体育祭のリレーで最終走者に選ばれた男が、三歩で転んでいる。二十七年間で培った運動神経は今どこにあるんだ。どこかに置いてきたのか。転生のときに落としたのか。
——まあ、そうか。
体が新品なのだから仕方がない。頭の中にある運動神経と、実際に動く体は別物だ。サラリーマン時代だって、久しぶりに走ったら足がもつれた経験がある。それと同じだ。たぶん。
エミリーが抱き上げてくれた。もう一回、という顔だった。
もう一回やった。
三歩で転んだ。
もう一回やった。
二歩で転んだ。
——退化した。
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それからしばらく、毎日練習した。
転ぶのには慣れた。慣れたくはなかったが、慣れた。五歩歩けた日があった。
——おっ。
こらえた。ガッツポーズはこらえた。エミリーが見ていた。
「お上手ですよ」
エミリーがにこにこしながら言った。
今度は、少し上手かった。
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イサベル母さんが練習に加わったのは、そのころからだった。
エミリーより距離が近かった。両手を広げて待っている位置が、エミリーの半分くらいだった。
——近い。
近いのはありがたかった。転ぶ回数が減った。三歩で辿り着けた。母さんが「上手!」と言った。
でも次の日、距離が少し広がっていた。
——気づいていた。
気づいていたが、何も言えなかった。言える言葉がなかった。「距離を広げるのは早い」と言いたかったが、口から出るのは「あー」だけだった。
歩いた。転んだ。
母さんが駆け寄ってきた。
——駆け寄ってくるから練習にならない。
でも何も言えなかった。母さんが「大丈夫?」と言いながら抱き上げてくれた。抱き上げられると、まあいいか、という気持ちになった。前世では誰かに心配されることがほとんどなかった。独り暮らしのサラリーマンというのはそういうものだ。
——まあ、悪くない。
転んでも悪くなかった。
それからまた歩いた。
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一月が終わるころには、十歩くらい歩けるようになっていた。
まだよちよちだった。段差で詰まる。方向転換で詰まる。何もないところで詰まる。なぜ詰まるのかは自分でもわからなかった。体の重心がまだ俺のものになっていない感覚だった。
でも十歩は十歩だ。
エミリーが「お上手ですよ」と言った。
母さんが「上手!」と言った。
二人の評価基準がどこにあるのかはわからなかったが、悪い気はしなかった。
——まあ、そうか。
少しずつ、前に進んでいた。
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二月二日の朝、家の中が少し違う雰囲気だった。
何かが違う。空気が、いつもより少し明るい。エミリーがいつものにこにこで朝の準備をしていたが、何かが違った。
——何かあるのか。
アルマン父さんが俺を抱き上げた。珍しかった。平日の朝に父さんが抱き上げてくることは、あまりない。
「今日はエミリーの誕生日だ」
父さんが言った。
——そうか。
エミリーの誕生日。
俺はエミリーを見た。いつものにこにこだった。特別そわそわしているわけでもなかった。でも心なしか、少し柔らかい顔をしていた。
——何かできないか。
考えた。
言葉は無理だ。「ハッピーバースデー」と言いたいが、口から出るのは「あーあーあー」だけだ。プレゼントも無理だ。自分では何も買えない。
でも、一つだけある。
——歩くことなら、できるかもしれない。
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夕方、家族が居間に集まった。
テーブルの上にケーキがあった。ろうそくが立っていた。聖燭祭の日らしい、蜜蝋のろうそくだった。エミリーが火を吹き消した。母さんが拍手した。父さんが笑った。
俺はそのとき、壁際にいた。
エミリーまでの距離を測った。三メートルくらいだった。今の俺には少し遠い。転ぶかもしれない。詰まるかもしれない。でも今日はここぞという場面だった。
壁から手を離した。
一歩目、出た。
頭の中でハッピーバースデーを歌い始めた。
二歩目、出た。
口から出るのは「あーあーあー」だけだった。
三歩目、出た。重心が右に傾いた。詰まりそうになった。こらえた。
「あーあーあー」
四歩目、五歩目。
エミリーが気づいた。こちらを見ていた。にこにこが、止まっていた。
六歩目、七歩目。
母さんが息を呑む音がした。父さんが何か言おうとして、止まった。
八歩目、九歩目。
——あと少しだ。
十歩目。
エミリーのところまで、辿り着いた。
エミリーが止まっていた。一秒くらい、止まっていた。それから、ゆっくりと抱き上げてくれた。
「——坊っちゃん」
声が、いつもと違った。
俺は頭の中でハッピーバースデーを歌い終えた。口からは最後まで「あーあーあー」しか出なかったが、まあそれでよかった。
父さんが笑っていた。母さんが目を押さえていた。
——うまくいった。
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その夜、父さんが端末を持ってきた。
「見るか」と言った。
母さんとエミリーも一緒だった。三人が画面を覗き込んでいた。今日の映像が映っていた。よちよちとエミリーに向かって歩く俺が映っていた。母さんが笑った。エミリーがにこにこしていた。父さんが何か言った。三人がまた笑った。
——いつから撮っていたんだ。
父さんが端末をスクロールした。一月の映像が出てきた。転んでいる俺が映っていた。詰まっている俺が映っていた。三人がまた笑った。
父さんがさらにスクロールした。
——待って。
ガッツポーズをしている俺が映っていた。一人だと思っていた瞬間の俺が。
三人が笑っていた。
俺は三人を見た。
——撮られていたとは、ちょっと恥ずかしいな。




