第二十二話 フランス語と根拠のない確信
暇だった。
いつも通り、モニターのアニメを見ていた。赤ん坊の頃から続けている習慣だ。前世からキャラクターが変わっても、言葉は変わらない。今日も台詞を頭の中で分解しながら、語彙を一つずつ積み上げていた。
そこで、ふと気づいた。
——俺、日本語で考えている。
当たり前だ。前世が日本人だったのだから。でも——今の俺はフランス人だ。デュボワ家の子供として生まれた、れっきとしたフランス人だ。
——フランス語を、ちゃんと覚えなければならない。
アニメで言葉を拾うのは悪くない。でもアニメはあくまで補助だ。体系的に学ばなければ、いつまでも聞き取れる単語を増やすだけで終わる。文法が、まだ全然追いついていない。
——どうするか。
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エミリーが来た。
いつもの時間だった。にこにこしていた。俺がモニターをじっと見ているのを確認して、それからテーブルの上に何かを置いた。
絵本だった。
表紙に、大きな木の絵が描いてあった。フランス語で何か書いてある。字はまだ読めないが、読んでもらえるならそれでいい。
エミリーは俺の隣に座って、表紙を開いた。それから、静かに読み始めた。
フランス語だった。
柔らかい発音で、テンポよく読んでいく。一つ一つの音が丁寧で、聞いていると言葉の輪郭がくっきりしてくる気がした。俺は耳を傾けながら、頭の中で単語を拾った。木。森。光。鳥。知っている単語が、いくつか聞こえた。
——悪くない。
生きたフランス語を、これだけ近くで聞ける機会はそうない。
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聞きながら、考えていた。
フランス語は——難しい。
発音からして難しい。Rの音が、日本語にない。喉の奥で転がすような音で、何度聞いても体が再現できない。口が、まだこの言語に慣れていない。
でも発音より厄介なのが——名詞の性別だった。
フランス語では、すべての名詞に性別がある。男性名詞と女性名詞だ。
木はle bois——男性だ。なぜ木が男性なのか。森はla forêt——女性だ。なぜ森は女性なのか。光はla lumière——女性。鳥はl'oiseau——男性。
——法則が、見えない。
英語にも冠詞はあるが、性別はない。前世で仕事上英語と中国語を使っていた経験が今も役立っているが、この男女名詞だけは脳の別の引き出しが必要な気がした。ひとつひとつ、性別ごと丸暗記するしかない。
——地道だ。
前世でも、地道な積み上げは得意だった。やるしかない。
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エミリーがページをめくった。
今度は動物のページだった。ウサギ。キツネ。クマ。エミリーが一つずつ読み上げていく。
——エミリーはフランス語が上手い。
当たり前だ。ネイティブなのだから。
——待った。
エミリーはフランス人だ。
俺は内心で、エミリーの属性リストをゆっくり更新した。護衛。メイド。サイボーグ。霧使い。妖精使い。
——フランス人。
追加した。
——次は何が出てくるんだろう。
少し、楽しみになってきた。
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名詞に性別がある。
人を指す言葉にも、当然性別がある。フランス語では、相手が男性か女性かによって使う言葉が変わる。
そこで——ふと、引っかかった。
——ヴァンドームの子供。
以前から、俺の頭の中に存在している人物だ。父親とヴァンドームの父親が「お互いの子供を会わせよう」と言っていた。幼なじみ候補だ。
名前を、聞いていない。
性別を、聞いていない。
正確には——父親たちの会話を壁越しに聞いた断片の中に、そこまでの情報はなかった。俺が持っている情報は「ヴァンドームに子供がいる」それだけだ。
——根拠は、何もない。
お嬢様だと思っていたが、根拠は何もない。名前も知らない。声も知らない。背が高いのか低いのかも知らない。ブロンドかどうかも知らない。グレーの目かどうかも知らない。
——何もない。
俺はしばらく、その事実と向き合った。
——でも。
——お嬢様だと思っている。
根拠はない。でも、そういう気がする。ヴァンドームという名前の持つ気品と、父親の格から滲み出るあの雰囲気と——総合すると、お嬢様という結論に落ち着く。
論理ではない。直感だ。
前世のエリートサラリーマンとして、直感を大事にしてきた場面もあった。
——今回も、きっと合っている。
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エミリーが絵本を閉じた。
「坊っちゃん、楽しめましたか」
俺はエミリーを見た。にこにこしていた。フランス人だった。
俺は小さく頷いた。
——お嬢様に会うまでに、ちゃんと話せるようになっておかないといけない。
根拠はないが、そう決めた。




