第二十一話 歩くための手段と俺の限界
数日が経っていた。
つかまり立ちは、できるようになってきた。棚の縁を掴めば、五秒は立っていられる。十秒のときもある。それ自体は進歩だ。
問題は——手を離した瞬間に崩れることだった。
毎回だ。例外なく。手を離す→重心が揺れる→床に座り込む、という流れが完全に固定されている。
——なぜ。
理屈はわかる。支えなしで立つには、体幹と足首の微細なバランス制御が必要だ。それが今の体にはまだ備わっていない。わかっている。わかっているが——
——なぜ。
――――――――――――――――――
考え方を変えることにした。
問題は体だ。ならば体そのものを強化すればいい。前世で読んでいたなろう小説には、幼少期の鍛錬で将来の身体能力が跳ね上がるパターンが山ほどあった。幼少期に限界を超えた修行をした結果、規格外の体になっていた主人公たちが。
——俺にもできるはずだ。
まず、身長だ。
背が高い方が重心の制御に有利かどうかは正直わからないが、高い方がいいに決まっている。かっこいいからな。
身長を伸ばすには何が必要か。
——睡眠だ。
成長ホルモンは睡眠中に分泌される。これは前世の知識だ。なろう小説でも、よく寝る主人公は大きくなっていた気がする。
俺は目を閉じた。
――――――――――――――――――
起きた。
——変わっていない。
そうだ。一日二日で変わるはずがない。長期的な話だ。焦るな。
次——栄養だ。
骨と筋肉の発達には、タンパク質とカルシウムが重要だ。バランスの良い食事を心がけるべきだ。
俺は食事を見た。
母が用意したものだった。ミルクと、柔らかく煮た野菜と、すり潰した何かだった。
——俺に決定権がない。
完全にない。食材の選択も、調理方法も、量も、全部親が決める。俺にできることは、出されたものを食べることだけだ。
——まあ、そうか。
――――――――――――――――――
では運動だ。
体を動かすと運動神経が発達する。これは間違いない。幼少期の運動習慣が将来の身体能力を左右する、という話は前世でも聞いたことがある。
具体的に何をするか。
ハイハイをたくさんする——これは体幹と腕力に効くらしい。
——今まさにやっている。
うつ伏せで頭を持ち上げる——首と背中の筋肉に効くらしい。
——これも毎日やっている。
床から自分で起き上がる——腹筋と背筋に効くらしい。
——転倒のたびにやっている。
ボールを追いかけてハイハイする——目と体の連動に効くらしい。
——魔力トレーニングで球体のおもちゃを毎日転がしている。
――――――――――――――――――
俺はしばらく、天井を見た。
——全部、既にやっていた。
追加でできることが、何もない。
それどころか——改めて考えると、なろう小説の主人公が幼少期の鍛錬で規格外になっていたのは、大抵チートか特別な才能があったからだ。魔力が無限にある主人公。神から加護をもらった主人公。転生特典で身体能力が底上げされていた主人公。
——俺にはチートがない。
魔力は平均値だ。神とは会っていない。転生特典は何も届いていない。
——つまり。
なろう小説の知識は、チートがある前提で成立していた。
——そういうことか。
――――――――――――――――――
階段が、視界に入った。
デュボワ家の廊下には、大きな階段がある。何度か見たことがあった。あれを上り下りすれば、手足の交互動作とバランス感覚が鍛えられるらしい。
——いける。
ハイハイで近づいた。一段目に手をかけた。
「坊っちゃん」
エミリーが来た。音もなく、0コンマ何秒かで来た。
抱き上げられた。
「危ないですよ」
にこにこしていた。いつも通りだった。
——そうか。
――――――――――――――――――
飾り棚の前に戻った。
結局ここだ。追加の戦略も、なろう知識も、階段も、全部だめだった。やることは最初から変わっていない。
縁に手をかけた。立った。五秒。手を離した。
崩れた。
もう一回。立った。七秒。手を離した。
崩れた。
もう一回——
床が、遠くなった。
気づいたら、手が棚から離れていた。一歩、前に出た。二歩。三歩。
俺が歩いたのか、体が勝手に歩いたのか、正直よくわからなかった。でも——立っていた。支えなしで、立っていた。
エミリーが、静かに息を飲む音がした。
——次は、走ることを考えよう。




