第二十話 笑う膝とつかまり立ち
妖精は、いた。
昨日のことを、まだ少し引きずっていた。
ニアは静かだった。霧の中から現れて、俺を見て、小さく頷いて、戻っていった。怖くなかった。綺麗だった。
——そういえば。
エミリーの属性を、頭の中で整理し直した。
護衛。メイド。サイボーグ。霧使い。
——妖精使い、を入れ忘れていた。
妖精が本当にいると知って、そっちに気を取られすぎていた。肝心のエミリー自身のことをちゃんと見ていなかった。
——まあ、そうか。
しかしエミリーの属性は、会うたびに増えている気がする。メイドだと思っていたらサイボーグだった。サイボーグだと思っていたら護衛だった。護衛として霧を展開して敵を倒して、今度は妖精使いだ。
——次は何が出てくるんだろう。
少し、楽しみになってきた。
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——では、俺はどんな生き物を仲間にできるんだろう。
ドラゴン。
——かっこいい。異論はない。
でも——ドラゴンと仲間になれる人間がそこらじゅうにいたら世界が終わる気がする。希少性の問題だ。
では妖精か。
ニアみたいな存在が隣にいる、という絵はある。でもそれはエミリーがいる。同じ路線というのも、少し芸がない。
——アンデッドは。
ゾンビ。スケルトン。リッチ。
一見、地味だ。むしろ不吉だ。でも——前世で読んでいたなろう小説で言えば、見た目最弱・実は誰も止められない、というパターンは決してゼロではなかった。弱そうな相棒と地道に実力を積んで、気づいたら誰も敵わなくなっていた、という展開は、嫌いじゃない。
あと——一体じゃなくてもいい、という考え方もある。
妖精が一体。ドラゴンが一体。アンデッドが一体。組み合わせで何でも対応できる。器用貧乏にならないよう運用さえ間違えなければ——
——いや。
俺は図鑑を閉じた。
——今の俺には早い話だ。
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魔力のトレーニングは続けている。球体のおもちゃに魔力を流す。それだけだが、毎日続けている。
でも今日は、別のことをやる気になっていた。
部屋を見回した。
アンティーク調のサイドテーブル。重厚な木製の棚。飾り棚の低い縁——。
——あれだ。
飾り棚の縁が、今の俺の身長からすれば手が届く高さだった。ハイハイで近づいた。縁に両手をかけた。
理屈はわかる。足裏で体重を支えて、重心を上げて、膝を伸ばす。それだけだ。
——いける。
腕に力を込めた。
膝が笑った。
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笑うというのは比喩だ。笑っている場合ではない。でも確かに膝から下が細かく震えて、体が浮かない。
——なぜ。
立つというのは、二本の細い棒の上に全体重を乗せる行為だ。改めて考えると、これは普通に難しい。前世では当たり前にやっていたから気づかなかっただけで、人間が二足で立つというのはかなり精密なバランス制御を要求される動作だ。
——前世の俺は毎日これを無意識にやっていたのか。
感心している場合ではなかった。
もう一度、縁を握り直した。今度は一気に立とうとせず、まず膝立ちだけを目指した。片足を前に出して、体重を移して——
後ろに倒れた。
壁のモニターが静かに光った。「転倒を検知しました」。
——うるさい。
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三回目だった。
今度は片足ずつ試した。右足に体重をかけて、左足を引き上げて——
左足が上がらなかった。
四回目。左足から先に動かしてみた。
右膝が笑った。
五回目。両足同時に押し上げるイメージで——
床に座り込んだ。
——なぜ。
理屈はわかるのに体が動かない。前世でこれほど体に裏切られただろうか。コツをつかむのは早い方だったはずだ。でも今の体は——まだ、俺のものになっていない。
モニターがまたひっそり光っていた。
——わかっている。
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エミリーが来た。
いつの間にか、すぐそこにいた。にこにこしていた。
「坊っちゃん」
俺は棚の縁を、もう一度掴んだ。返事の代わりだった。
エミリーはしゃがんで、少し離れた場所から俺を見た。手を、少し前に伸ばした。何も言わなかった。
——また、この距離か。
以前と同じだった。エミリーはいつも、手が届くか届かないかくらいの場所にいる。
俺は縁を握り直した。膝立ちから、片足を前に出した。体重を移した。膝を——
立った。
二秒だった。それだけだった。でも確かに、床から離れて、二本の足で立っていた。
エミリーが目を丸くした。
にこにこではない顔だった。本当に、素直に、驚いた顔だった。
次の瞬間にはまた座り込んでいた。膝が盛大に笑って、棚の縁も間に合わなかった。
でも——二秒は、立っていた。
俺は棚の縁を、もう一度掴んだ。
——まだ足りない。




