第十九話 妖精はいた
暇だった。
1歳になっても、やることは大して変わらなかった。魔力を鍛える。言葉を覚える。エミリーを眺める。
天井を見る——基本的にはそれだけだ。
でも最近、一つ娯楽が増えた。
魔法図鑑だ。
ヴァンドームからもらったやつだ。字はまだ読めない。でも絵だけで十分楽しめる。前世では経済誌や業界レポートを読んでいた俺が、今は絵本レベルの魔法図鑑で時間を潰している。
——まあ、悪くない。
――――――――――――――――――
今日もエミリーが掃除をしていた。
俺は床に座って魔法図鑑をめくっていた。ハイハイができるようになってから、床に降ろしてもらえる時間が増えた。自分で図鑑をめくれるようになったのは最近のことだ。
ページをめくるたびに、新しい絵が出てくる。
炎の鳥。龍。光の蝶。魔法陣——どのページも色鮮やかで、眺めているだけで飽きなかった。
そして——そのページが、出てきた。
小さな翼を持つ、光の粒のような生き物。
細い手足。大きな目。体から光が滲み出ている。翼は透明で、光を受けてきらきらと輝いていた。
——ピクシーか。
ページの下に、小さな文字が書かれていた。字はまだ読めない。でも絵だけで十分だった。
俺はそのページをじっと見た。
——神話の生き物だ。
でも——この世界には魔法がある。魔法があるなら、こういう生き物も実在するのかもしれない。
エミリーを見た。
——聞いてみるか。
――――――――――――――――――
「エミリー」
エミリーが振り返った。にこにこしていた。
「はい、坊っちゃん」
俺は図鑑のページを指さした。ピクシーのイラストを、人差し指でつついた。
「……これ、ほんとにいるの?」
エミリーが図鑑を覗き込んだ。それから、にこにこしたまま答えた。
「はい、いますよ」
俺の手が、止まった。
——いた。
神話の生き物が、普通にいた。
——この世界はどこまで詰め込むつもりなんだ。
エミリーはそのまま掃除に戻ろうとした。それから——少し間を置いて、振り返った。
「実は私にも、妖精の仲間がいるんですよ」
にこにこしたまま、さらりと言った。
俺は固まった。
——仲間?
——どういうことだ。
「……みせて」
――――――――――――――――――
エミリーは少し考えた。
それから——頷いた。
白い霧が、ほんのりと部屋に広がった。音もなかった。ただ——気づいたら、霧があった。冷たくも温かくもない、ただそこにある霧だった。
その霧の中から——現れた。
白い長髪だった。体が半透明で、霧と境界がわからないくらいだった。白いドレスを着ていた。表情は——穏やかだった。怖くなかった。ただ、静かにそこに立っていた。
俺はしばらく、その存在を見た。
——怖くない。
むしろ——綺麗だ。
——でもこれが、エミリーの仲間か。
——納得した。
その存在が、俺をじっと見た。大きな目だった。感情が読みにくい目だった。でも——敵意はなかった。
彼女が、小さく頷いた。
俺も、小さく頷いた。
エミリーがにこにこしながら言った。
「バンシーのニアです。おとなしいですよ」
ニアはそのまま、静かに霧の中に戻っていった。部屋の霧が、少しずつ晴れた。
――――――――――――――――――
聞きたいことが、山ほどあった。
——ニアはどこから来たのか。どういう経緯で一緒にいるのか。霧と笛の能力はニアから来ているのか。バンシーという種族はどういうものなのか——
でも。
口が、追いつかなかった。
——聞きたいことが、ある。
——でも言葉が、まだ足りない。
前世では朝礼で百人の前でスピーチができた。取引先との交渉も、英語でこなしてきた。それが今は、単語を三つ並べるのが精一杯だ。
——早く喋れるようになりたい。
人生で初めて、そう本気で思った。
――――――――――――――――――
その夜、俺は魔法図鑑のピクシーのページをもう一度眺めた。
小さな翼。光の粒のような体。大きな目。
——こういう生き物が、実在する。
エミリーの仲間・ニアも、妖精の一種だ。この世界には、神話の生き物が普通にいる。
——では。
俺は図鑑をめくった。龍のページ。炎の鳥のページ。光の蝶のページ。
——これも、全部いるのか。
——この世界は——思っていたより、ずっと広い。




