第8話 気づく者、気づかない者
数日が過ぎ、第二王子の執務室は以前よりも静かに、しかし確実に回り始めていた。
書類の滞留が減り、確認不足による差し戻しも少なくなる。会議の時間は短縮され、議題は整理されていく。表立って評価されることはなくとも、空気は変わっていた。
――けれど、それが誰のおかげなのかを、口にする者はいない。
エリシアは、そのことを理解していたし、同時に予想もしていた。
成果は共有されるが、名前は出ない。
責任は曖昧で、功績は上へ吸い上げられる。
それが、ここでの常だ。
「……最近、仕事が早いな」
昼下がり、若い文官がぼそりと呟いた。
独り言のようでいて、視線はエリシアの机に向けられている。
「以前は、この時間でもっと混乱していたはずだが」
隣にいた別の文官が、肩をすくめる。
「殿下の采配が良いんだろう」
「まあ、それもあるが……」
それ以上、言葉は続かなかった。
エリシアは、聞こえないふりをして書類に目を落とす。
胸の奥に、小さな棘が刺さったままなのを感じながら。
――慣れているはずなのに。
これまでだって、同じことは何度もあった。
第一王子の執務室でも、同じように影で整え、表には名前が出なかった。
だが、ここでは少しだけ違う。
ここでは、「気づく者」が、確かに存在している。
午後、資料の受け渡しのために廊下へ出たとき、エリシアは一人の男に声をかけられた。
「……君」
振り返ると、見覚えのある顔だった。
中堅の文官、カイル・エルド。現場経験が長く、実務に厳しいと評判の人物だ。
「先日の港湾税の件、要点整理をしたのは君か?」
突然の問いに、エリシアは一瞬だけ言葉を選んだ。
「……はい。確認用としてまとめただけですが」
カイルは、じっと彼女を見つめた。
探るような視線。
「そうか」
それだけ言い、彼は資料を受け取って去っていった。
評価とも否定ともつかない反応。
だが、胸の奥で何かが揺れた。
――見ている人は、見ている。
その事実が、心を少しだけ前向きにする。
しかし、その直後だった。
夕刻の簡易報告会で、例の年配文官が成果をまとめて発表した。
「本件については、こちらで事前に整理を行い、混乱を未然に防ぎました」
言葉は淡々としているが、そこにエリシアの名前はない。
誰も疑問を口にしない。
それが当たり前だからだ。
エリシアは、静かに報告書の端を見つめていた。
悔しさがないわけではない。
だが、それ以上に胸を占めていたのは――自分自身への違和感だった。
――私は、いつまで黙っているつもりなのだろう。
結果を出しても、名を出さなければ、存在しないのと同じだ。
それを分かっていながら、声を上げないのは、果たして美徳なのか。
執務室に戻った後、レオンハルトは何も言わなかった。
その沈黙が、かえって重い。
夜、書類を整理していると、机の前に影が落ちた。
「少し、話を」
レオンハルトだった。
彼は椅子を引き、エリシアの正面に立つ。
「最近、仕事は滞りなく進んでいます。あなたの処理能力は、十分以上です」
評価の言葉。
だが、そこで終わらなかった。
「それでも、あなたは前に出ない」
核心を突く一言。
エリシアは、言葉を失った。
「成果が誰のものになるか、気にしていないふりをしている。しかし――」
レオンハルトは、静かに続ける。
「それは、あなた自身を過小評価しているということでもある」
胸が、きしりと音を立てた。
「なぜ、主張しないのですか」
問いは、責めるものではなかった。
ただ、理解しようとする声だった。
エリシアは、視線を落とす。
「……主張すれば、疎まれるからです」
ぽつりと、本音が零れた。
「役に立たなくなれば、居場所はなくなります。だから、目立たない方がいいと……そう、思っていました」
言葉にした瞬間、胸の奥が痛んだ。
それが、長年染みついた考え方だと、改めて自覚する。
レオンハルトは、しばらく黙っていた。
そして、短く告げる。
「それは、あなたの弱点です」
厳しい言葉。
だが、否定ではない。
「ここでは、結果を出した者が前に出る。そうでなければ、正しい判断が共有されない」
エリシアは、ゆっくりと顔を上げた。
「……変わらなければ、いけませんか」
問いかけは、震えていた。
「ええ」
即答だった。
「ここにいる以上、あなたには“守られる理由”ではなく、“必要とされる理由”を持ってもらいます」
その言葉は、重く、しかし確かだった。
エリシアは、深く息を吸う。
まだ、できる自信はない。
怖さも、消えない。
それでも。
「……考えます」
そう答えた自分の声は、以前よりも、わずかに強かった。
気づく者は、確かにいる。
だが、気づかない者の方が多い。
その現実を前に、エリシアは初めて思った。
――気づかせる努力も、必要なのだと。




