第9話 第二王子の問い
その日の業務が一段落した頃、執務室にはいつもより早い静けさが訪れていた。
外はすでに夕暮れで、窓から差し込む光は柔らかく、書類の角を淡く照らしている。エリシアは机の上を整えながら、先ほどの会話を何度も思い返していた。
――気づかせる努力も、必要なのだ。
分かってはいる。だが、それができれば、ここまで追い詰められてはいない。
「まだ残っていますか」
低い声が背後からかかる。振り返ると、レオンハルトが立っていた。いつの間にか上着を脱ぎ、袖をまくっている。仕事を終える合図のような姿だった。
「いえ、もう大丈夫です」
そう答えながら、エリシアはペンを置いた。
「では、少し時間を」
彼はそう言って、執務室の扉を閉めた。その動作に、特別な意味はない。ただ、業務の区切りを示すだけだ。それでも、胸の奥がわずかに緊張する。
「先ほどの話の続きです」
レオンハルトは、机に寄りかかるようにして言った。
「あなたは、自分が前に出ることで、誰かの立場を脅かすと考えている」
エリシアは、否定しなかった。図星を突かれたときに出る癖で、指が膝の上で止まっていた。
「……はい」
「それは、事実です」
意外なほど、あっさりと肯定される。慰められるものとばかり思っていた分、面食らった。
「評価は、必ず比較を生みます。あなたが評価されれば、誰かは相対的に下がる」
胸が、きゅっと締めつけられる。ずっと避けてきた理屈を、正面から並べられた気がした。
「だから私は、これまで――」
「ですが」
レオンハルトは、言葉を切った。
「それでも、やらなければならない場面がある」
その視線は、真っ直ぐだった。逸らすことを許さない目ではなく、ただ動かない目だ。
「正しい判断が埋もれることで、被害を受けるのは、立場の弱い者です。あなたではない」
エリシアは、はっとした。これまで、自分が前に出ることで誰かを傷つけるとばかり考えていた。だが、彼の言葉は逆だった。
「あなたが黙ることで、不利益を被る者がいる」
その指摘は、重かった。自分が黙った分の勘定を、誰かが払っていたことになる。
「……そんなふうに、考えたことはありませんでした」
「でしょうね」
責める調子はない。診断を読み上げるような、平らな声だった。
「あなたは、ずっと“自分が耐える側”で生きてきた。だから、被害の矛先が他へ向くという発想が抜け落ちている」
エリシアは、唇を噛みしめた。思い当たる節が、いくつもある。無理な書類処理。曖昧な決定。誰かが気づくまで放置された問題。それらの裏で、実際に困るのは、現場の人間だ。
「……私は、逃げていたのかもしれません」
小さな声で、そう言った。声にしてしまえば、取り消せなくなると分かっていた。
「争わないことが、正しいと思っていました。でも、それは――」
「責任を引き受けない、という選択でもあります」
レオンハルトは、静かに続けた。
「私は、あなたを前に出したいわけではありません。無理に目立てとも言わない」
そして、一拍置いて。
「ただ、“必要な場面では、声を上げる人”になってほしい」
エリシアは、目を閉じた。怖い。正直に言えば、それが一番近い感情だった。声を上げれば、また拒絶されるかもしれない。疎まれ、排除されるかもしれない。
――それでも。
「……殿下は、私が声を上げた結果、誰かに疎まれても、切り捨てますか」
思い切って、尋ねた。レオンハルトは、即答しなかった。少しだけ視線を逸らし、そして言う。
「切り捨てません」
静かな断言だった。約束というより、条件の提示に近い言い方だった。
「ただし、理由のない主張であれば、私自身が否定します」
条件付きの信頼。だが、それは、最も誠実な形だった。エリシアは、ゆっくりと息を吐いた。
「……分かりました」
まだ、できる自信はない。だが、逃げ続けることは、もうできない。
「次に、同じ状況があれば」
顔を上げる。指先は、まだ少し冷たかった。
「私は、自分の判断を、言葉にします」
レオンハルトは、ほんのわずかに頷いた。
「それでいい」
その一言が、不思議と胸に残った。この人は、守ってくれるのではない。試し、鍛え、立たせようとしている。それが、信頼なのだと、初めて理解した。
窓の外は、すっかり夜になっていた。王宮の灯りが、点々と瞬いている。
エリシアは、静かに思う。変わるのは、怖い。それでも、変わらなければ、何も始まらない。
この執務室で、この人の下で。自分は、もう一度、立ち上がろうとしているのだと。
守ってくれる人ではなく、試して立たせようとする人として書いています。
助けないことが冷たさではない、という関係は、書くと地味になりがちです。それでもこの二人の距離はここから先もずっとこの形なので、早いうちに一度置いておきたい回でした。
この距離感を好ましいと感じていただけたなら、ブックマークで追いかけていただけると嬉しいです。




