第10話 小さな破綻
それは、一見すると何の問題もない案件だった。
数日後、第二王子の執務室に回ってきた一件の書類。地方開発に伴う臨時予算の再配分案で、形式も整っており、関係各所の承認印も揃っている。
表面だけ見れば、承認して終わり。むしろ、よくまとめられた案件だと評価されてもおかしくない。
――表面だけなら。
エリシアは、書類に目を通しながら、わずかに眉を寄せた。二度目に読んだところで、指が止まる。
「……?」
違和感は、ごく小さい。数字が合わないわけでも、規定を明確に逸脱しているわけでもない。だが、どこか引っかかる。
彼女はページを戻し、過去の資料と突き合わせた。三年前、二年前、前年。同種の案件と比べると、ある一点だけが、微妙にずれている。
――補助金の終了時期。
本来、開発が軌道に乗るまで段階的に減額されるはずの補助が、今回に限って、急に打ち切られる形になっていた。理由は記載されていない。代替案もない。
エリシアは、指先で紙の端をなぞった。今すぐ問題が起きるわけではない。だが、半年後、一年後――現場は必ず混乱する。
開発は途中で止まり、責任の所在は曖昧になる。そのとき困るのは、書類を通した人間ではなく、現地の住民だ。
――これは、通してはいけない。
だが、声を上げるべきかどうか。一瞬、迷いがよぎる。この案件は、第一王子陣営から回ってきたものだ。表向きは協調案件だが、実質的には向こうの主導。ここで異議を唱えれば、波風は立つ。間違いなく、目立つ。
エリシアは、深く息を吸った。
――次に、同じ状況があれば、声を上げる。
昨夜の言葉が、胸に浮かぶ。彼女は、書類をまとめ、立ち上がった。
「……殿下」
レオンハルトは、顔を上げる。呼ばれてから顔を上げるまでが、いつもより短かった。
「この案件ですが、少しお時間をいただけますか」
「どうぞ」
短い返事だった。それだけで、背中を押された気がした。
エリシアは、要点を簡潔に説明した。補助金の打ち切り時期。代替措置の欠如。将来的な混乱の可能性。感情を挟まず、事実だけを。
話し終えた後、執務室に静寂が落ちる。レオンハルトは、しばらく書類に目を通し、そして言った。
「……確かに、今は問題にならない」
胸が、きゅっと締まる。そこで終わるのなら、自分の指摘は通らない。
「ですが、後で必ず歪みが出る」
続く言葉に、ほっとする。見ていたのは同じ一点だったのだと分かった。
「あなたの指摘は、妥当です」
その一言で、迷いは消えた。妥当、という語を、この人は安く使わない。
「この件は、会議に上げます」
レオンハルトはそう告げた。決めるまでが短く、決めたあとを説明しない人だった。
「異議が出るでしょう。それでも、あなたの判断を説明できますか」
試すような問いだった。エリシアは、一瞬だけ考え、頷いた。
「はい。根拠は資料としてまとめます」
「分かりました」
それだけで、決まった。
翌日の会議は、重苦しい空気で始まった。第一王子側の実務官、ユリア・フェルゼンが案件を説明し、順調に進んでいることを強調する。
「特段の問題は見受けられません。現地からの要望も――」
「一点、確認を」
レオンハルトが、淡々と口を挟んだ。
「補助金終了後の対応について、記載がありませんが」
ユリアが、一瞬だけ言葉に詰まる。
「……現地の自立を促すための措置です。過度な依存を避ける意味も――」
「具体策は?」
短い問いだった。ユリアは、視線を資料に落とした。
「現時点では……今後、検討する予定です」
その瞬間、室内の空気が変わった。エリシアは、胸の奥が冷えるのを感じながらも、一歩前へ出る。
「補足しても、よろしいでしょうか」
視線が集まる。足が、わずかに震えた。それでも、声は落ち着いていた。
「補助金が急に打ち切られた場合、開発途中の事業が停止する可能性があります。その際、現地は自立どころか、資金不足に陥ります」
資料を差し出す。角の折れた古い綴りで、昨夜のうちに書庫から出してきたものだ。
「こちらは、過去に同様の措置が取られた地域の記録です。結果として、再支援が必要になり、かえって予算が膨らみました」
静かな説明だった。だが、確実に刺さる内容でもあった。沈黙が落ちる。ユリアは、唇を噛みしめた。
「……それは、極端な例では」
「いいえ」
エリシアは、はっきりと言った。声が震えなかったことに、自分でも驚いていた。
「条件が、ほぼ同じです」
言い切った瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
――私は、逃げなかった。
会議は、その場で結論を出さなかった。だが、案件は差し戻しとなり、再検討が決まる。
終わった後、廊下でユリアが立ち止まり、エリシアを見た。
「……あなたが、例の元婚約者ね」
探るような視線だった。
「随分、踏み込みましたね」
「必要だと思いましたので」
それだけ答える。ユリアは、小さく息を吐いた。
「……面倒な相手だわ」
そう言い残し、去っていった。執務室に戻ると、レオンハルトが短く言った。
「よくやりました」
それだけだった。だが、エリシアは分かっていた。これは、小さな破綻だ。そして同時に、始まりでもある。気づかれてしまったのだ。――自分という存在に。




