第75話 正式接触
戴冠式の翌日。王宮の空気は張り詰めたままだった。祝賀は形だけ。各国使節はまだ滞在している。
その中で、一通の書簡が届けられた。差出人名はない。だが封蝋は深紺。刻印は――円環の中に三本の柱。
「……オルディア連盟」
第一王子が低く呟く。書簡は簡潔だった。
『戴冠を祝す』
『金融安定枠の正式提案を行う』
『交渉の場を設けよ』
そして一文。
『拒否は自由。ただし市場は自由ではない』
脅しではない。事実の提示だった。レオンハルトは静かに言う。
「受ける」
エリシアが即座に理解する。受けると言った時点で、断り方を探す話になる。
「表に出さず、非公式に」
「そうだ」
第一王子が頷く。この一点だけは、兄弟の意見が最初から揃っていた。
「拒否するにも、相手を知らねばならん」
夜。王宮の小会議室。灯りは最小限。現れたのは、三十代半ばの男だった。整った身なり。無駄のない動き。笑みは柔らかい。
「オルディア連盟、特務代理人カイウスと申します」
名は初めて聞く。だが背後の規模は計り知れない。
「祝辞を」
「不要だ」
レオンハルトは短く返す。カイウスは微笑む。
「率直で結構」
「では本題へ」
机に一枚の紙を置く。精密な数値が並んでいた。
「王国の財政予測」
「三年以内、破綻確率三十一・八%」
ルークが微かに息を呑む。自分の試算とほぼ一致していた。
「連盟加盟後、四・二%」
静寂が落ちた。四・二%という数字だけが、紙の上に残っている。
「条件は」
第一王子が問う。数字ではなく、値札のほうを先に訊いた。
「経済政策監査権の付与」
「対外貿易の一部調整権」
つまり、静かな主権譲渡だ。カイウスは続ける。
「軍は不要」
「流血も不要」
「我々は安定を売る」
言葉は穏やかだった。だが重い。
「拒否すれば」
「市場は王を試す」
株価操作。信用格付け引き下げ。他国への圧力。戦争ではない。だが国は揺れる。
「連盟は敵ではない」
カイウスは言う。敵ではない、という否定から入るのが、この男の型だった。
「王国を守る存在になれる」
沈黙。ルークが口を開く。
「……加盟は恒久か」
「退出は可能」
「ただし」
「市場は記憶する」
静かな笑みだった。レオンハルトはカイウスを見つめる。
「なぜ王国だ」
「王国は中心にある」
「地理的にも、経済的にも」
「そして」
一瞬だけ目が鋭くなる。そして、の先に本音が置かれている。
「新王は理想を掲げた」
「理想は市場を不安にさせる」
エリシアが静かに言う。不安にさせる、という言い方に引っかかった。
「不安を煽っているのは連盟では」
カイウスは肩をすくめる。
「市場は自律する」
責任を取らない構造だった。会談は一時間続いた。最終的に。
「回答は保留」
レオンハルトが告げる。保留、という語を、彼はためらわずに選んだ。
「承知した」
カイウスは立ち上がる。断られたとは、この男は受け取っていない。
「王よ」
「恐怖に屈しないと宣言した」
「では市場にも屈しないことだ」
去り際の一言だった。扉が閉まる。沈黙。第一王子が低く言う。
「軍より厄介だ」
エリシアは資料を見る。軍より厄介、という言葉に反論する材料が無い。
「戦わずして縛る」
ルークは立ち尽くしていた。数字は正しい。だが、王は揺れていない。
「陛下」
かすれた声だった。会談のあいだ、彼は一度しか口を開いていない。
「私は」
レオンハルトは彼を見る。責める目でも、赦す目でもなかった。
「お前の試算は必要だ」
意外な言葉だった。
「だが選択は王がする」
断罪でも赦免でもない。責任の所在を示しただけだった。
夜の王都。市場は静かだ。
会談の卓に残された紙を、エリシアは片づけずに置いたままにした。四・二%の欄が、灯りの下で白く見える。
王は保留と言った。保留がいつまで保留でいられるのかは、まだ誰も口にしていない。
オルディア連盟が正面から出てきます。
書簡の最後の一行を、脅しの文面にしないよう何度も書き直しました。事実を並べるだけのほうが、たいてい怖い。




