第69話 戴冠の朝
王都の朝は、静かだった。戦争の気配は遠のき、国境からは正式に撤退完了の報せが届いている。だが王宮の空気は軽くない。
戴冠式を三日後に控え、玉座の間では最終確認が続いていた。
「陛下、財務報告です」
まだ正式即位前ではあるが、呼称はすでに変わり始めている。書類を差し出したのは、若い男だった。
「財務監察官、ルーク・ヴァルデンです」
落ち着いた声。無駄のない所作。レオンハルトは書類を受け取る。
「短期財政収支の予測です」
数字が並ぶ。港湾改革による一時的関税減収。地方補助金増額。暴動鎮静費用。
「……赤字か」
「はい」
即答だった。言いにくいことを、息継ぎなしで言う男らしい。
「三年以内に均衡しなければ、国債依存度が危険域へ」
室内が静まる。第一王子が口を開く。
「最悪の場合は」
「外資依存が進みます」
ルークの声は揺れない。最悪の場合を訊かれて、そのまま最悪を答えた。
「金融的主権を失う可能性があります」
皮肉な言葉だった。主権を守るための改革が、別の主権危機を招く。
レオンハルトは視線を上げる。
「打開策は」
「歳出抑制と段階的増税」
「民の反発は」
「強いでしょう」
即答だった。エリシアが静かに言う。
「他の選択肢は」
ルークは一瞬だけ沈黙した。答えを持っていない沈黙ではなかった。
「……国際金融保証の活用」
第一王子の目が細まる。他の選択肢、という問いに、答えがあった。
「具体的には」
「大陸商業圏との信用枠設定」
曖昧な表現だった。だが言外に何かを含む。レオンハルトは見抜いている。
「名前は」
沈黙。ルークは数秒躊躇い、口を開く。
「オルディア連盟」
空気が変わる。その名は、ヘインズ裁判で示唆されたばかりだった。
「接触があったのか」
第一王子が問う。接触、という語を、王ではなく兄が先に使った。
「正式ではありません」
「だが情報は入っています」
冷静で、合理的な答え方だった。
「加盟すれば財政安定は確実」
静かな爆弾だった。確実、という語をこの男が使うのは初めてだ。
「代償は」
レオンハルトが問う。代償、と先に訊いたのは、答えの見当がついていたからだ。
「経済政策の一部監督権」
つまり、主権の譲渡だ。沈黙。ルークは続ける。
「陛下」
「理想は尊い」
「だが数字は嘘をつきません」
「王国単独で金融戦に勝てる保証はありません」
まっすぐな視線だった。敵意はない。本気で国を守ろうとしている目だ。
レオンハルトは立ち上がる。
「保証はない」
低い声だった。保証はない、と相手の言葉をそのまま受けた。
「だが主権は賭けない」
即断ではない。だが揺れない。ルークの目がわずかに揺れる。
「……承知しました」
頭を下げる。だが、その瞳の奥には、まだ迷いが残っていた。
夜。王都の一角。静かな書斎。ルークは一人、封書を見つめている。深い紺色の封蝋。刻印はない。中には一枚の紙。
「王国単独では三年以内に財政破綻確率三十二%」
「連盟加盟後、破綻確率四%」
精密な試算だった。そして最後の一文。
「国家を救うための選択を」
ルークは目を閉じる。
「……救う」
彼は悪ではない。彼は恐れている。理想が数字に負けることを。
遠く、鐘が鳴る。戴冠まで、あと三日。
同じ夜、エリシアの手元にも同じ試算表があった。三十二%の欄で指を止め、四%と書かれた紙は無いことを確かめる。
無いものを確かめてしまったことを、彼女はまだ誰にも言っていない。
ルーク・ヴァルデンが出てきます。
彼は悪役として設計していません。理想が数字に負けることを恐れている人です。封書の中の「四%」という数は、この先ずっと物語の底に沈んでいます。
数字で人を追い詰める展開がお好きな方は、ブックマークをしておいていただけると先が読みやすいと思います。




