第68話 撤退
翌朝。王宮の謁見の間に、再びセルヴァン・グリードが立っていた。前日と同じ深緑の衣。だが空気は違う。王は決まった。
レオンハルトが玉座の前に立つ。正式即位はまだだが、実質的な決定権は彼にある。
「回答を聞こう」
セルヴァンが静かに言う。余裕は崩れていない。
「港湾改革は凍結しない」
レオンハルトは迷いなく告げる。前置きを一つも置かなかった。
「優遇措置の独占も復活させない」
室内が張り詰める。復活させない、と二つ目まで言い切った。
「代替案を提示する」
エリシアが一歩前に出る。視線はまっすぐ。
「透明関税制度の下、貴国商会に一定の物流優先枠を保証」
「関税率は固定」
「事前協議義務は拒否」
はっきりと言う。三項目のうち、譲れない一つを最後に置いた。
「だが再協議は定期的に行う」
セルヴァンの目が細まる。定期的、という一語だけを、彼は聞き逃さなかった。
「主権は譲らぬ、ということか」
「当然だ」
レオンハルトが答える。当然だ、の一言で済ませた。
「圧力に屈した前例は作らない」
沈黙。
「軍はどうする」
セルヴァンが問う。条件の話が終わり、軍の話へ移った。
「防衛線を維持する」
「開戦の意思はない」
「だが越境には即応する」
言外に含まれる意思があった。恐怖はある。だが退かない。セルヴァンは数秒、二人を見つめる。
「賭けに出たな」
「未来に投資した」
レオンハルトは静かに返す。賭け、と言われて投資と言い換えた。
「隣国も戦争は望んでいない」
「制裁は圧力」
「圧力が通じなければ、次は交渉だ」
理屈は理解している。セルヴァンは小さく息を吐く。
「若い王だ」
「だが愚かではない」
視線がエリシアへ向く。誰が案を作ったのかを、この男は測っている。
「補佐官の働きか」
沈黙。レオンハルトが言う。
「王の判断だ」
即答だった。だがセルヴァンは微笑む。
「なるほど」
間。
「我が国は軍を段階的に撤退させる」
室内がわずかに揺れる。撤退、という語が出るまで、誰も息をしていなかった。
「制裁は部分的に緩和」
「再協議は一月後」
完全勝利ではない。だが、屈服ではない。
「覚えておけ」
セルヴァンが低く言う。忠告の形をした、次への予告だった。
「理想は守り続けねば意味がない」
「その覚悟はあるか」
「ある」
迷いなく答えた。セルヴァンは頷く。
「今回は引く」
「だが次は本当の実力が問われる」
踵を返す。深緑の旗が、王宮を後にする。
数刻後。国境から報せが届く。
「隣国軍、撤退開始」
評議の間に安堵の息が広がる。戦争は回避された。屈服もしていない。
レオンハルトは静かに目を閉じる。そしてゆっくりと息を吐く。
「始まりだ」
低い声だった。エリシアが小さく頷く。
「はい」
恐怖は退いた。
謁見の間を出るとき、レオンハルトはエリシアの半歩前で立ち止まり、始まりだ、ともう一度だけ言った。今度は誰にも聞こえない声で。
撤退は段階的、制裁は部分的、再協議は一月後。エリシアは三つを頭の中で日付に直した。一月後は、決算のひと月前になる。
偶然そう置いたのか、そこまで見て置いたのかは、あの男に訊かなければ分からない。
はい、と返した声も、たぶん誰にも聞こえていない。
戦争は回避されましたが、屈服はしていません。
この差は、その場では誰も得をしません。得をするのは何年か先で、しかもたいてい誰の手柄にもならない。そういう決着の仕方を書きたい話です。




