第63話 国境集結
報せは夜半に届いた。
「国境沿いに隣国正規軍一万、展開確認」
軍務官の声は抑えられているが、その緊張は隠せない。
「演習名目ではありますが」
「陣形は実戦配置に近いかと」
王宮の空気が一変する。一万。もはや威嚇の域を越えている。
地図が机に広げられる。国境の丘陵地帯。街道沿い。補給拠点の設営。
「本気だな」
第一王子が低く呟く。地図の一点を、指で押さえたまま動かさない。
「開戦の意思は」
国王が問う。開戦、という語を最初に口にしたのは王だった。
「不明です」
軍務官が答える。分からない、と言い切るまでに勇気の要る場だった。
「ただし、偶発衝突の危険性は高い」
偶発。その言葉が重い。小競り合い一つで、戦争は始まる。
「我が軍は」
レオンハルトが問う。相手の数より先に、こちらの兵の状態を訊いた。
「防衛線を強化中」
「兵は動揺しています」
正直な報告だった。兵もまた、民だ。家族がいる。恐怖は広がる。
王都。翌朝。噂は瞬く間に広がった。
「戦争になるらしい」
「隣国軍が来ている」
市場は再び不安に包まれる。商会は在庫を抱え込み、価格はさらに乱高下する。子どもを抱く母親が、城門を見上げる。
「本当に戦うの?」
答えはない。城門の兵も、目を合わせずに首を振るだけだった。
王宮。
「凍結すれば軍は引く」
第一王子が静かに言う。引く、と断定できるだけの読みを、彼は持っている。
「隣国は戦争を望んでいない」
「だが脅しは成功体験になる」
レオンハルトが返す。成功体験、という語を、彼は交渉の話として使った。
「今回退けば、次も来る」
「退かねば戦争だ」
「退いても主権は削られる」
理屈の応酬だった。だが今日は、理屈だけではない。軍務官が続ける。
「国境付近の村が避難を開始」
沈黙。それは現実だ。民が動いている。
「民を守るのが王だ」
第一王子の声が強まる。民を守る、という一行だけは、二人とも同じだ。
「今は戦争回避が最優先だ」
視線がレオンハルトへ向く。避難、という語が出た直後だった。
「弟よ」
「感情ではなく、命を見ろ」
重い言葉だった。レオンハルトは黙る。彼も命を見ている。だからこそ揺れる。
執務室。エリシアは国境報告を読み込んでいた。
「兵站は三日分」
小さく呟く。数字を三度確かめてから、口に出した。
「長期戦の準備ではありません」
「短期圧力」
カイルが言う。短期圧力、と彼女の言葉を受けて続けた。
「開戦よりも、屈服を狙う」
エリシアの目が細まる。三日という数字と、評議の日取りが重なっている。
「つまり」
「評議前に決断を迫る」
王位決定と同時に、外交方針を固定させる。隣国は賭けに出ている。
王都の城壁上。夕刻。レオンハルトが一人、遠くを見る。国境の方向。見えないが、確実に軍がいる。
「恐怖か」
低く呟く。誰にも聞かせるつもりのない声だった。
「未来か」
背後に足音。振り返ると、エリシア。公の場では距離を取るはずだった。だがここは城壁の上で、聞く者はいない。
「軍は三日分の兵站です」
静かな報告だった。城壁の上でも、彼女は報告の形で話しはじめる。
「長期戦の意思は薄い」
「つまり圧力」
「はい」
視線が交わる。わずかな距離。
「評議前に屈服させる狙いです」
「王位と外交を同時に縛る」
風が強まる。遠くの空が赤く染まる。
「恐怖は確かに広がっています」
エリシアが言う。恐怖を否定しないところから始めた。
「ですが」
「兵はまだ国境を越えていません」
事実だった。越えていない、という一点だけが、まだこちらの手にある。
「こちらが揺れれば、相手は勝つ」
レオンハルトは小さく息を吐く。
「揺れているのは、私かもしれない」
珍しい弱音だった。城壁の上でなければ、言わなかっただろう。
「兄上は正しい」
「戦争は避けるべきだ」
エリシアは静かに言う。正しいと認めることは、負けることではない。
「ですが、恐怖に基づく安定は長続きしません」
以前と同じ言葉だった。だが今は重みが違う。
「私は」
彼が低く言う。
「民を戦場に送りたくない」
「私もです」
即答した。
「だからこそ」
「屈しない」
短い言葉。風が吹き抜ける。城壁の下では、兵が巡回している。
城壁を降りるとき、風が強くて、エリシアの髪がほどけた。レオンハルトは手を出さない。ただ、風上に半歩だけ立ち位置を変えた。
気づかないふりをして、彼女は髪を結び直す。
評議まで、あと一日。訊きたいことが一つ増えて、訊く時間だけが減っていく。
一万という数字を出すかどうか、少し迷いました。
具体的な数を書くと迫力は出ますが、読者は数えられてしまう。今回は数えられる側に置いたほうが緊張が続くと判断しました。
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