第62話 足枷
王都の空気は、重かった。制裁関税の影響は、確実に広がっている。商会は取引を縮小し、地方から不安の報せが届く。王宮の廊下ですれ違う視線も、どこか張り詰めていた。
――改革が招いた危機。
その言葉が、静かに広まりつつある。誰が言い出したかは、もう分からない。
エリシアは執務室で一人、書状を見つめていた。地方領主からの訴えだった。
「農産物の売値が下落し、税収に影響」
「民の不安が増している」
指先が、わずかに止まる。理屈はわかっている。これは隣国の圧力だ。だが、現実に苦しむのは民だ。
「……私が」
小さく呟く。港湾改革を主導したのは自分だった。正しいと信じている。だが。
「もし凍結していれば」
被害は抑えられたかもしれない。扉が開く。
「ここにいたか」
レオンハルトが入ってくる。疲労は隠しているが、目は鋭い。
「地方報告を確認していました」
「状況は把握している」
短い答えだった。沈黙。
「殿下」
エリシアは顔を上げる。訊くと決めたのは、書状を三通目まで読んだときだった。
「私は、足枷ではありませんか」
静かな言葉だった。だが重い。彼の目が変わる。
「何を言う」
「改革を推し進めたのは私です」
「隣国が圧力をかける口実を作った」
「民は不安に晒されています」
声は震えない。だが内側は揺れている。
「もし私が退けば」
その先は言わない。だが意味は明確だった。
「凍結という選択も、取りやすくなる」
沈黙。レオンハルトはゆっくりと近づく。
「それが最善だと、本気で思うか」
「……わかりません」
初めて、迷いを見せる。答えを持たないまま口にしたのは、これが初めてだった。
「私は理屈を示せます」
「だが民の恐怖は、理屈では消えません」
窓の外から、遠くの鐘の音がした。夕刻を告げる鐘が、今日は妙に長く聞こえる。
「私は殿下の隣に立ちたい」
「だが」
「そのせいで国が揺れるなら」
そこで言葉が止まる。彼は静かに言う。
「あなたは揺らしていない」
「揺らしているのは恐怖だ」
視線が強い。揺らしていない、と彼は主語のほうを訂正した。
「恐怖は口実を探す」
「あなたがいなくても、別の理由を見つける」
「だが」
エリシアは目を伏せる。理屈では負けている。それでも引けない一点がある。
「私は標的にされやすい」
事実だった。平民出身。補佐官。改革推進者。
「攻撃は、私を通じて殿下へ向かいます」
それが一番の痛点だった。彼は数秒沈黙する。そして低く言う。
「ならば守る」
「守られるだけでは」
「違う」
即座に遮る。守られるだけ、という言い方を、彼は許さなかった。
「共に立つ」
視線が絡む。共に、という語を、この人は何度でも使う。
「あなたは足枷ではない」
「私の武器だ」
強い言葉だった。だが。
「……だが」
ほんのわずかに声が落ちる。
「王位が決まるまでは」
間。
「距離を取る」
空気が止まる。武器だと言った口で、距離を取ると続けた。
「公の場では」
「感情を見せない」
理性の選択だった。国家のため。だが胸に刺さる。
「承知しました」
エリシアは静かに答える。理解している。それが正しい。それでも、ほんのわずかに距離が生まれる。
「評議まで、あと二日」
彼が言う。二日、という数字だけが、部屋にはっきり残った。
「覚悟を決める時間だ」
彼は背を向ける。扉が閉まる。部屋に残る静寂。
エリシアは窓の外を見る。遠く、国境の方向。煙のような霞。恐怖は、確かに広がっている。
地方領主の訴えは、三通とも同じ順で書かれていた。売値、税収、不安。書いた者が違うのに、並べ方が揃っている。
誰かが雛形を配っている。エリシアはそう見当をつけ、書状を日付順に綴じ直した。
退かない。たとえ距離が生まれても。隣に立つ覚悟は、消えていない。
距離を取る、という選択をここで一度させています。
感情を否定したのではなく、公の場に出さないと決めただけ。この二つは似ていますが、後の展開ではまったく別の意味を持ちます。




