第6話 臨時補佐官として
第二王子レオンハルトの執務室は、王宮の中でも不思議な場所だった。
豪奢な装飾はない。必要最低限の調度品と、机の上に積まれた書類の山。壁際には地図と年表、棚には帳簿と法令集が並び、空気は紙とインクの匂いで満ちている。
――ここは、社交の場ではない。
誰かを飾り立てる場所でも、慰める場所でもない。
エリシアは扉を閉め、静かに背筋を伸ばした。
「こちらへ」
レオンハルトは淡々と指示し、机の脇に置かれた小さな机を示した。そこにはすでに、封の切られていない書類束がいくつも積まれている。
「本日からあなたは、私の執務補佐として働きます。ただし――」
彼は一度言葉を切り、エリシアを見る。
「正式な任命ではありません。肩書きも、あなたの身分も、この部屋の外では守られない」
そう言い切る声に、揺れはない。
エリシアは頷いた。
「承知しております」
「ならばいい」
それだけ言うと、レオンハルトはすぐに視線を書類へ戻した。まるで、エリシアがここにいることが当然であるかのように。
その態度が、逆に緊張を呼んだ。
――期待されている。
同情ではなく、仕事として。
エリシアが席に着くと、扉がノックされ、年配の文官が入ってきた。灰色の髪をきちんと撫でつけた、細身の男だ。目が合うなり、彼は一瞬だけ眉を動かした。
「殿下、本日の案件をお持ちしました」
「置いてください。ああ、それと」
レオンハルトは顔も上げずに言う。
「こちらは本日から補佐に入る、エリシア・フォン・アルヴェーンです。連絡の行き違いが起きぬよう、共有しておいてください」
文官の視線が、エリシアへと向けられる。
値踏みするような、冷えた目。
「……承知いたしました」
形だけの一礼を残し、男は書類を置いて出ていった。
扉が閉まった途端、胸の奥がひやりとした。
あの目は、知っている。
夜会で向けられた視線と同じ種類だ。
――元婚約者。
――落ちた令嬢。
――情けで拾われた存在。
そのラベルが、今も自分に貼りついているのだと、痛いほど分かった。
エリシアは、そっと指先を握りしめた。
ここで怯んだら終わる。
仕事で示すしかない。
積まれた書類束の一番上を取り、封を切る。
中身は、地方の租税の徴収報告。数字の羅列と、曖昧な文章。
目を走らせた瞬間、理解した。
――これは、後回しにしたらまずい。
数字の齟齬がある。
意図的か、単なる計算ミスかは分からない。だが、今のまま承認されれば、来月の配分に影響する。
エリシアは用紙の端に、細い字でチェックを入れ、別紙に要点をまとめ始めた。
やるべきことは明確だった。
・数字の整合性確認
・疑義箇所の抽出
・追加資料の要求文の下書き
・今日中に殿下へ報告
指先が自然と動く。
かつて、第一王子の机に積まれていた書類を処理した時と同じ。違うのは、今は「隣に立つ婚約者」ではなく、「結果を求められる補佐」だということ。
しばらくして、再び扉がノックされた。
今度は若い文官が顔を出す。先ほどの男より年下で、どこか落ち着きがない。
「殿下、こちら……」
「机に」
レオンハルトは短く返す。
若い文官は書類を置きながら、ちらりとエリシアを見た。驚きと警戒が混じった表情。
だが、彼が出ていく直前、背後から別の声が聞こえた。
「……本当に、ここに入れたのか」
扉の向こう、抑えた声。
それに小さく応える声。
「殿下のご判断だ。だが、面倒の種にならねばいいがな」
扉が閉まる。
エリシアは、ペン先を止めなかった。
胸の奥がざわついても、表情は動かさない。
――面倒の種。
そう見られているのなら、なおさら結果を出す。
午前の時間は、ひたすら書類と向き合って過ぎていった。
昼前、レオンハルトが初めて顔を上げる。
「進捗を聞かせてください」
エリシアはまとめた紙束を持って立ち、机の前へ進んだ。
「租税報告の第二項、計上額に差異があります。計算式の記載がなく、追加資料の提出が必要です。こちらに、疑義箇所と確認事項をまとめました」
淡々と報告する。
震える声は出なかった。
レオンハルトは紙に目を通し、ほんのわずかに眉を上げた。
「……速いですね」
それだけ言い、紙を机の端に置く。
「要求文の下書きは?」
「こちらに。口調は官僚向けに整えました。感情的に取られないよう、理由を三行で明示しています」
「良い」
短い評価。
だが、胸の奥に小さく灯るものがあった。
褒められた、というより。
仕事が「仕事」として扱われたことが、初めて嬉しかった。
「午後は、この案件を優先します。あなたは引き続き、残りを。期限の近いものから処理してください」
「承知しました」
そのまま席に戻ろうとしたエリシアの背に、レオンハルトが言った。
「……無理はしないように」
声は小さく、命令のようでも、慰めのようでもない。
事務的な確認のようでいて、わずかに温度があった。
エリシアは振り返らずに頷いた。
「はい」
午後も、書類は途切れなく運び込まれた。
予算配分、兵站の補給、港湾税の見直し、外交文書の文言調整。
どれも小さな案件に見えて、積み上がれば国を傾ける。
エリシアは、無駄な部分を削り、必要な要点だけを抜き出し、指示が通る形に整えていく。
それは派手な仕事ではない。
だが、間違いなく「国政を回す」仕事だった。
夕刻、机の上が少しだけ片づいた頃、扉が開き、先ほどの年配文官が入ってきた。
「殿下、追加資料の件で地方局から返答が……」
そこで、彼は言葉を止めた。
机の端に置かれたエリシアのまとめ紙が目に入ったのだろう。
「……この要点整理は?」
レオンハルトが答えるより先に、エリシアは一歩前へ出て、静かに言った。
「私が作成しました。誤りがあれば、訂正いたします」
年配文官は、じっとエリシアを見た。
冷たい目が、僅かに揺れる。
「……なるほど」
それだけ言い、返答書を机に置く。
彼が去ったあと、室内はまた静けさを取り戻した。
エリシアは、椅子に座り直し、息を吐いた。
胸の奥が、じんと痛む。
たった一言「なるほど」。
それだけなのに、夜会の嘲笑より、ずっと効いた。
――評価されないことに慣れていたはずなのに。
不思議だ。
ここでは、評価が「存在の価値」ではなく、「仕事の価値」として返ってくる。
だからこそ、少しの反応に心が揺れる。
窓の外は、薄い橙色に染まり始めていた。
今日一日で、世界が変わったわけではない。
立場はまだ不安定で、王宮の視線は冷たい。
それでも。
机の上の書類が少しだけ減ったのを見て、エリシアは小さく思う。
――私は、まだ終わっていない。
捨てられたことが終わりではない。
ここから、始め直せる。
その確信だけが、静かに胸の奥で形を作っていた。
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