第5話 第二王子の執務室へ
翌朝、エリシアはまだ薄暗い空の下で目を覚ました。
昨夜は、ほとんど眠れなかった。目を閉じるたびに、広間での視線や、第一王子の声が脳裏に蘇る。それでも涙は出なかった。ただ、胸の奥に重たいものが沈んでいるだけだ。
「……今日から、ですね」
ぽつりと呟き、身を起こす。婚約者としての部屋は、今日で最後になる。
王宮の使用人たちは、必要以上に丁寧だった。哀れみと距離感が混ざった態度が、かえって居心地を悪くする。
荷物は最低限だった。華やかな装飾品は、ほとんど持たなかった。もともと、必要以上のものを欲しがる性格ではない。
「エリシア様……」
マリアが、不安そうに声をかける。旅装の鞄を抱えたまま、置く場所を決めかねている。
「本当に、第二王子殿下のところへ行かれるのですか? あの方が悪い人だとは思いませんが……」
「分かっているわ」
エリシアは微笑んだ。侍女が何を言いたいのかは、聞く前から分かっている。
「期待しすぎてはいけない、ということでしょう?」
マリアは、ぐっと言葉に詰まる。否定できないから黙る、という詰まり方だった。
そうだ。これは救済ではない。少なくとも、まだ。立場は不安定で、保証もない。昨日まで王太子妃候補だった自分が、今日は“臨時の補佐”だ。
だが――それでも、何もない場所へ放り出されるよりは、遥かにましだった。
第二王子レオンハルトの執務室は、王宮の中でもやや奥まった場所にあった。装飾は控えめで、実務本位。廊下を歩く人の数も、東棟とは比べものにならないほど少ない。
扉をノックすると、すぐに低い声が返ってくる。
「入ってください」
中に入ると、書類の山に囲まれた机と、その向こうに立つレオンハルトの姿があった。
「……来てくれて、ありがとうございます」
彼は立ち上がり、形式的に一礼する。その態度に、エリシアはわずかに戸惑った。昨日まで、誰もが自分を“下がれ”と命じていたのに、この人は、対等に扱おうとしている。
「こちらこそ。お時間をいただき、ありがとうございます」
ぎこちなく返礼すると、レオンハルトはすぐに本題に入った。
「まず、誤解がないように申し上げます」
淡々とした口調だった。
「私は、あなたを同情でここに呼んだわけではありません」
エリシアは、黙って頷く。同情でないのなら、なおさら理由が知りたかった。
「兄上の婚約が解消されたことも、私にとっては予想外でした。ですが、それとは関係なく、以前からあなたの仕事ぶりは見ていました」
そう言って、机の上に一冊の書類を置く。見覚えがあった。自分が関わった、予算整理の報告書だ。角が擦り切れるほど繰られている。
「数字の整合性、文章の簡潔さ、優先順位の付け方。どれも、官僚の中でも上位です」
評価の言葉が、淡々と告げられる。エリシアは、一瞬、言葉を失った。
それは、これまで一度も向けられたことのない視点だった。“役に立つかどうか”ではなく、“仕事としてどうか”。
「……ですが」
レオンハルトは続ける。言いにくいことを言う前の、短い間だった。
「あなたは、自分の価値を正しく認識していない」
その指摘は、鋭かった。誰にも言われたことがない、という一点で鋭かった。
「必要以上に一歩下がり、成果を主張しない。それが美徳だと思っているのでしょうが、政治の場では弱点になります」
エリシアの胸が、わずかに痛んだ。美徳だと思っていたわけではない。ただ、そうしていれば波風が立たなかっただけだ。
「ここでは、遠慮は不要です。仕事には、結果と責任が伴います。私の下で働く以上、それは例外ではありません」
厳しい言葉だった。だが、そこに軽視はなかった。
「条件は一つ」
レオンハルトは、まっすぐに彼女を見る。書類から目を離したのは、このときが初めてだった。
「あなた自身が、“ここで働きたい”と思えるかどうかです」
選択権を、こちらに委ねている。エリシアは、しばらく考えた。昨日までの自分なら、即座に首を縦に振っていただろう。だが今は、違う。
「……正直に申し上げます」
ゆっくりと、言葉を選ぶ。取り繕えば見抜かれる相手だという気がした。
「私は、まだ自信がありません。ここにいる資格があるのかも、分かりません」
それでも、と続ける。
「何もせずに、元の場所へ戻るつもりはありません」
顔を上げ、レオンハルトを見る。膝の上で、指が一度だけ強く握られた。
「ここで、働かせてください。結果で、示します」
しばらくの沈黙の後、レオンハルトは、わずかに口元を緩めた。
「……それで十分です」
その言葉に、安堵よりも、緊張が走る。これは始まりだ。甘い救済ではない。評価される場所に立っただけで、結果を出せなければ、また失う。
それでも――。エリシアは、胸の奥で静かに思った。あの夜、捨てられたことで、自分は初めて“選ぶ側”になったのだと。
王宮の窓から差し込む朝の光が、執務室の床を照らしていた。それはまだ、かすかな光だったが、確かに、前へ進む道を示していた。




