第52話 揺れる理性
医務室の灯りは、白く冷たい。包帯が巻かれる音がやけに響く。
「浅い傷です」
医官が言う。手際は速く、言葉は少ない。
「数日で塞がるでしょう」
「……そうか」
レオンハルトの声は低い。視線は、傷口から離れない。
医官が退出し、室内に二人きりになる。沈黙。重い。
「殿下」
エリシアが静かに言う。包帯の白さが、この人の目を落ち着かせない。
「過度に怒る必要はありません」
「怒っていない」
即答だった。だが拳は固い。
「これは戦略だ」
「はい」
「兄上ではない」
低く続ける。兄を庇う言い方ではなく、手口が違うという意味だった。
「別の誰かが動いている」
理屈は整っている。だが視線は揺れている。
「私の護衛体制の甘さです」
「違う」
鋭い声だった。初めて、明確な否定だった。
「あなたの責任ではない」
沈黙。エリシアは彼を見る。いつもは冷静な瞳。だが今は、抑えきれない何かがある。
「……失うところだった」
低く、押し殺した声だった。同じ言葉を、馬車の中でも聞いている。
「殿下」
「王位など」
一瞬、言葉が止まる。それは言ってはいけない言葉だった。
「……違う」
自分で否定する。言いかけたものが何だったかは、二人とも分かっていた。
「違わない」
エリシアが静かに言う。彼が顔を上げる。
「王位は重要です」
「だが」
「ですが」
視線を逸らさない。ここで頷けば、この人は後から自分を責める。
「私の命と引き換えにするものではありません」
空気が止まる。彼の呼吸が、わずかに乱れる。
「あなたは」
低い声だった。あなたは、で切ったまま、続きを探している。
「王になるべき方です」
「そのために、あなたが傷つくなら意味がない」
はっきりと言う。理性の壁が、ひび割れる。
「私は補佐官です」
「それだけではない」
即答だった。沈黙。言葉が、もう戻れない位置に来ている。
「……それだけではない」
彼は繰り返す。視線が真っ直ぐに向く。
「あなたは」
一歩、近づく。触れない距離だった。
「私の判断を支えている」
「それは」
「理性ではなく」
低く。
「心を」
息が止まる。心、という語を、この人が使うとは思わなかった。
「あなたがいなければ」
言葉が震える。震えたことに、本人が気づいていない。
「私は、ここまで踏み込まなかった」
それは事実だった。港も、宣言も、覚悟も。すべて。
「殿下」
「失いたくない」
はっきりと。初めての、明確な言葉だった。医務室の静寂が、重くなる。
「王位よりも」
一瞬、躊躇う。だが飲み込まない。
「あなたを」
空気が震える。告白一歩手前だった。エリシアの胸が強く打つ。
「……それは」
声が揺れる。名指しで返さなければ、この場が終わらない気がした。
「感情です」
「そうだ」
迷いなく認めた。否定する語を、彼は一つも用意していない。
「感情だ」
否定しない。理性の王子が、初めて認めた。長い沈黙。だがまだ、一線は越えない。
「今は」
彼は静かに言う。今は、という一語で、越えない線を引き直した。
「守る」
短い宣言だった。
「王位も、あなたも」
理性と感情の両立。だがもう、隠れていない。エリシアはゆっくりと頷く。
「私も」
小さく言う。守られる側で終わるつもりは、最初から無い。
「殿下を守ります」
視線が絡む。触れない。だが、距離は確実に縮まった。
夜は深い。
医官の置いていった予備の包帯が、机の端に一巻き残っていた。誰も片づけない。
エリシアはそれを見て、明日も同じ机で仕事をするのだと思った。守ります、と返した言葉の重さは、明日になってから届くのだろう。




