第51話 夜の影
その夜は、妙に静かだった。王宮からの帰路。護衛は最小限にしてある。過度な警戒は噂を強めるからだ。
石畳を進む馬車の音が、やけに響く。エリシアは書類を閉じ、窓の外を見る。灯りが少ない。路地が、暗い。
――視線。
かすかな違和感だった。人の気配というより、音が一つ足りない感じがした。
「止めて」
小さく言う。御者が手綱を引く。
「何か」
「気配が」
言い終わる前だった。矢が飛ぶ。窓ガラスが割れ、鋭い破片が舞う。
護衛が叫ぶ。声より先に、身体が窓の側へ入っていた。
「伏せてください!」
二本目の矢。エリシアは身を屈める。馬が暴れ、馬車が揺れる。外で剣戟の音。
黒衣の男が屋根から飛び降りる。短剣が月光を反射する。護衛が応戦する。だが敵は速い。
扉が開かれる。刃が振り下ろされる。エリシアはとっさに腕で防ぐ。鈍い痛み。血がにじむ。男の目は冷たい。
「標的確認」
低い声だった。再び刃が振り上げられる。その瞬間、剣が閃く。鋭い衝撃音。男の短剣が弾かれる。
「……殿下!」
護衛の声。レオンハルトが立っていた。息を乱し、剣を構える。
「退け」
低く、殺気を帯びた声だった。男は一瞬躊躇う。だが包囲を察し、闇へ跳ぶ。足音が遠ざかる。静寂が戻る。だが血の匂いが残る。
「怪我は」
彼が駆け寄る。視線が、腕の傷に止まる。
「浅いです」
エリシアは冷静に言う。冷静に言えているうちは、まだ大丈夫だと思っていた。
「……浅い?」
声が低く震える。彼は手袋を外し、傷口に触れる。温かい血が滲む。その瞬間、彼の理性が揺れた。
「誰が」
低い声。怒りを抑えている。抑えていることが、はっきり分かる抑え方だった。
「狙いは私でした」
「わかっている」
拳がわずかに震える。剣を握っていたときより、いまのほうが震えている。
「恐怖を植え付けるためだ」
理屈は理解している。だが、視線が、わずかに揺れる。
「……失うところだった」
小さな声だった。ほとんど、独り言に近い。エリシアの心臓が強く鳴る。
「殿下」
「なぜ」
彼は顔を上げる。問いの形をしているが、答えを求めていない声だった。
「なぜ護衛を増やさなかった」
「噂を抑えるためです」
「命より優先するな」
鋭い声だった。初めて、明確な怒りだった。沈黙。彼は深く息を吐く。
「……すまない」
声が低い。謝る相手を、自分にすり替えていた。
「怒っているのは、私だ」
「殿下」
「あなたを標的にした時点で」
視線が鋭くなる。標的、という語を、彼は男の口から聞いている。
「これは王位争いを越えた」
静かな宣言だった。護衛が周囲を固める。夜風が冷たい。
「帰る」
短い命令。馬車に乗り込む。向かい合う形になった。灯りが揺れる。沈黙。だが先ほどとは違う。距離が、近い。
「怖かったか」
低い問いだった。馬車の中で、彼が最初に口にしたのがそれだった。
「……少し」
正直に答える。少しではなかった、と言い直す気にはなれない。彼の目が、揺れる。
「私は」
一瞬、言葉を探す。自分の状態を説明するのに、慣れていない人だった。
「恐怖よりも」
声がわずかに低くなる。
「怒りが勝った」
それは王としての怒りではない。個人的な感情だった。
馬車が王宮へ向かう。血の匂いがまだ残る。そして、何かが、決定的に変わり始めていた。
夜道で矢が飛びます。
事件そのものより、そのあとの馬車の中を書きたい回でした。恐怖より怒りが勝ったと彼が言うとき、それは王としての怒りではありません。ここだけ、彼が個人に戻ります。
短い場面ですが、この人の温度が変わる最初の回です。
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