第50話 中立の視線
午後の応接室は、静まり返っていた。窓から差す光が、床に長い影を落とす。
ヴィオラ・レインハートは、優雅に椅子へ腰掛けている。手には扇。表情は読めない。
「補佐官殿」
穏やかな声だった。呼び方から、話の距離を測ってくる。
「少し話せるかしら」
「承知しました」
エリシアは対面に座る。距離は適切だった。だが緊張は隠せない。
「あなたは、強いわね」
唐突な言葉だった。世間話を挟まないところは、王のやり方に似ている。
「そのような評価は」
「謙遜は不要」
扇がわずかに動く。話の腰を折られるのを嫌う人らしい。
「王族会議での発言。あれは恐れを知らぬ者の言葉」
「恐れはあります」
静かに答える。恐れが無いのではなく、恐れたうえで言っただけだ。
「それでも口にしただけです」
「だから危うい」
ヴィオラの視線が鋭くなる。危うい、という語には、経験の裏打ちがあった。
「理想は、人を巻き込む」
その声音には、かすかな重みがあった。
「かつて父も理想を掲げた」
一瞬だけ、感情が滲む。扇の動きが、そこで止まっていた。
「そして内乱が起き、多くが失われた」
エリシアは黙る。それは噂で知っている話だった。噂として聞くのと、本人の口から聞くのとでは重さが違う。
「私は安定を選ぶ」
ヴィオラは言う。選ぶ、という語を、この人は一度しか使わない。
「情よりも制度。覚悟よりも秩序」
「理解できます」
「ではなぜ、あなたは第二王子の隣に立つ」
核心だった。視線が真っ直ぐ向けられる。
「王位争いは血を呼ぶ」
「……承知しています」
「それでも立つ理由は」
沈黙。逃げる選択もある。だが。
「殿下は」
静かな声で言う。理屈を並べるより、見たままを言うほうが通ると思った。
「民を見ています」
「第一王子は見ていないと?」
「見ている方向が違うだけです」
即答した。ヴィオラの目が細まる。
「あなたは公平だ」
「公平でなければ、補佐官は務まりません」
「だが情が絡めば、判断は揺らぐ」
鋭い指摘だった。公平でいられなくなる場所を、この人は知っている。
「あなたは、第二王子をどう見ている」
その問いは、政治ではない。個人への問いだった。胸がわずかに鳴る。
「王になる可能性を持つ方です」
「それだけ?」
扇が止まる。沈黙。
「……尊敬しています」
正直に答える。それ以上の語を、まだ自分に許していない。ヴィオラの目が揺れる。
「愛しているとは言わないのね」
直球だった。呼吸が止まる。
「私は補佐官です」
「立場で答えないで」
静かな圧だった。数秒の沈黙が落ちる。
「……まだ」
小さな声になった。答えを探したのではない。答えを認めるのに時間がかかった。
「言葉にしていません」
ヴィオラは、わずかに笑う。笑い方に、勝ち誇る色は無かった。
「正直ね」
立ち上がる。話を聞きに来たのではなく、確かめに来たのだと分かった。
「覚えておきなさい」
ゆっくりと近づく。扇はもう閉じかけている。
「王位争いで最も狙われるのは、心よ」
低い声だった。心、という語を、この人は戦術の名として使う。
「第二王子が揺らげば、あなたが傷つく」
「承知しています」
「本当に?」
視線が鋭い。承知という語を、この人は簡単に通さない。
「刃は、あなたに向く」
一瞬、空気が冷える。エリシアは目を逸らさない。
「それでも、退きません」
はっきりと言う。ヴィオラは、じっと見つめる。そして小さく頷く。
「覚悟はあるのね」
扇を閉じる。開いていた間より、閉じた音のほうが大きかった。
「では、見極めさせてもらう」
踵を返す。扉の前で止まり、振り返る。
「感情は否定しない」
意外な言葉だった。否定しないほうを、この人は先に置いた。
「だが、感情に溺れた王は支持しない」
静かに去る。部屋に残る静寂。エリシアは、深く息を吐いた。胸の奥が、わずかに震えている。
愛しているとは言わないのね、と問われて、まだ言葉にしていませんと答えた。答えてしまってから、言葉にしていない、が否定ではないことに自分で気づく。
廊下の奥で、気配が一瞬だけ揺れた。エリシアは振り返ったが、そこには誰もいない。




