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婚約破棄された地味令嬢ですが、実は王宮一の補佐でした ~捨てたのは第一王子? いいえ、私は第二王子と国を立て直します~  作者: 紅茶うさぎ


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第43話 揺れる心

 夜の執務室は、灯りが少なかった。書類は山積み。だが、いつもの静かな集中とは違う空気がある。


「若手の支持が増えています」


 カイルが報告を終え、退出する。扉が閉まる。残るのは二人だけだった。沈黙が落ちる。


「殿下」


 エリシアが、静かに口を開く。言うと決めたのは、昨日の夜だった。


「若手の動きは、私の存在が理由の一部です」


「港の成果が理由です」


 即答だった。考える間もなく返ってくる答えは、たいてい前から用意されている。


「ですが」


 視線を落とす。机の木目を、意味もなく目でたどった。


「第一王子殿下は、私を標的にしています」


 事実だった。攻撃は、彼女を通して第二王子へ向けられている。


「それが戦略です」


 レオンハルトは淡々と返す。相手の戦略を認めるところから始めるのが、この人の癖だった。


「戦略として正しい」


 一瞬の沈黙が落ちた。正しいと認められたことが、かえって痛い。


「ならば」


 エリシアは続ける。声が細くならないように、息を整えてから言った。


「私は一歩退くべきでは」


 空気が止まる。書類をめくる音も、灯りの揺れも、そこで消えた。


「何を言っている」


 声は低い。低いだけで、怒りの色はまだ無い。


「私が距離を置けば、殿下への攻撃は和らぐ可能性があります」


「可能性だ」


「政治は可能性で動きます」


 まっすぐに言う。可能性で動く、というのは、この人から教わった考え方だった。


「私がいることで、王位争いは加速しています」


 事実だ。港での成功、補佐官審議、若手貴族の支持。すべて彼女の存在と結びついている。


「……退くとは、何を意味する」


「補佐官を一時辞退します」


 静かな宣言だった。辞退、という語だけは、何度練習しても軽くならなかった。


「影響を最小限に」


 一瞬。彼の表情が変わる。怒りではない。困惑でもない。それよりも深い、何か。


「それが、あなたの結論か」


「合理的です」


 淡々と答える。淡々と答えるために、何度も口の中で繰り返してきた言葉だった。


「合理的、か」


 彼はゆっくりと立ち上がる。距離が縮まる。だが触れない。


「港で、残ると決めたのは誰だ」


「私です」


「王宮で、隣に立つと決めたのは」


「私です」


「ではなぜ、今退く」


 低い声だった。三つの問いを、同じ調子で並べられている。


「……殿下の負担を減らすためです」


 沈黙。長い沈黙が落ちた。


「負担だと?」


「第一王子殿下は、私を感情の象徴として扱っています」


 それは事実だ。審議の場で、兄はその一点だけを繰り返していた。


「王位を争う上で、弱点になり得ます」


 言葉は冷静だった。だが胸の奥は、痛む。レオンハルトは、ゆっくりと息を吐く。


「あなたは」


 低く、静かに言う。否定の前に、名前を呼ぶような間があった。


「私の弱点ではない」


 視線が絡む。逸らさないことが、この人の答え方だった。


「むしろ」


 一瞬、言葉を探す。探してから、いちばん短い語を選んだ。


「強みだ」


 エリシアの呼吸が止まる。強み、という語を、自分に向けて聞いたことがない。


「だが」


 彼は続ける。褒めたままでは終わらせないのが、この人の誠実さでもある。


「兄上は、そこを突いてくる」


 静かな事実だった。突かれると分かっていて、置き場所を変えない。


「だからこそ、退くべきではありません」


「……え」


「退けば、弱点であると認めることになる」


 はっきりと言う。退く理由を、そのまま退けない理由に裏返した。


「私は、あなたを守るために戦っているのではない」


 一瞬、胸が締まる。守るためではない、と言われて安心する自分がいた。


「国を守るためだ」


 淡々とした言葉だった。だが、その奥にあるものを感じ取る。


「あなたがいなくなれば、判断が鈍る」


 視線が揺れない。判断が鈍る、という言い方を、この人は自分に対して使った。


「それは政治的損失だ」


 合理的な理由。それ以上でも、それ以下でもないように聞こえる。エリシアは、ゆっくりと頷く。


「……承知しました」


 距離が、ほんのわずかに広がる。感情を抑えた空気だった。


「退きません」


「ええ」


 短い肯定。だが、何かが、わずかにずれた。


 合理。必要。強み。どれも正しい。だが――それだけなのか。


 夜の廊下を歩きながら、エリシアは自問する。足枷ではない。強みだと言われた。嬉しいはずなのに、胸の奥が、なぜか静かに揺れていた。


 一方、執務室に残ったレオンハルトは、拳を握る。


「……違う」


 小さく呟く。政治的理由ではない。本当は、いなくなることを、想像したくなかっただけだ。だがその言葉は、飲み込んだ。


 積み上げた書類は、朝までに片づく量ではない。エリシアは上から三冊を退け、期限の近い順に並べ直した。手が動いているあいだは、余計なことを考えずに済む。


 並べ替えながら、強みだ、と言われた一語を何度も置き直している。並べ替えても、意味は変わらなかった。

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