第42話 亀裂
王宮の廊下は、いつもと同じようでいて、違っていた。視線が増えた。囁きが止まらない。
「港湾の再設計、若手貴族の間で評価が高いそうです」
カイルが報告する。どこの家門か、名まで数えてきた口ぶりだった。
「特に地方領を持つ家門が」
「当然ですね」
エリシアは頷く。港が止まれば、真っ先に困るのは領地を持つ側だ。
「港は物流の要。地方経済に直結します」
「第一王子殿下の支持基盤にも影響が出ます」
それはつまり、均衡が崩れ始めているということだった。
その頃。第一王子の執務室。
「若手が揺れております」
側近オズワルドが報告する。揺れる、という語を、彼は数字のように使う。
「港湾再設計の透明化が支持を得ていると」
第一王子は静かに書類を閉じる。閉じる音のほうが、返事より早かった。
「民衆人気が、貴族に波及しているか」
「はい」
「愚かだ」
低い声だった。愚か、と切り捨てるとき、この人は必ず一語で済ませる。
「人気は波だ。やがて引く」
「しかし殿下」
オズワルドが慎重に言う。慎重さの度合いで、話の重さが分かる男だった。
「補佐官エリシアの存在が、象徴になりつつあります」
第一王子の目が、わずかに動く。象徴という語は、彼の辞書では厄介の同義語だった。
「象徴?」
「制度に切り込む者として」
「……危ういな」
小さく呟く。象徴は、潰し方を間違えると増える。
「弟は、あの女に引き上げられている」
「切り離すべきかと」
オズワルドの提案だった。だが第一王子は即答しない。
「切り離せば」
ゆっくりと言う。切り離す手順は、もう頭の中で二通り組んである。
「弟は反発する」
視線が鋭くなる。折る、という語を選んだ時点で、逃げ道は用意しない気だった。
「正面から折るべきだ」
一方。王宮中庭。若手貴族数名が、エリシアに声をかける。
「港の件、拝見しました」
「透明化は地方にも必要です」
「具体案を共有いただけませんか」
以前なら、あり得ない光景だった。半年前、同じ中庭で誰も彼女を呼び止めなかった。エリシアは慎重に答える。
「正式発表前の詳細は控えます」
「ですが」
静かに続ける。断りだけで終われば、次に声はかからない。
「制度改善は王国全体の課題です」
彼らは頷く。その様子を、遠くからレオンハルトが見ていた。胸の奥に、複雑な感情が走る。誇らしい。だが同時に、彼女の存在が、政治の中心に近づいている。
「殿下」
カイルが小さく声をかける。中庭の人数を、彼も数えていた。
「若手の動きが顕著です」
「ええ」
「派閥再編の兆しがあります」
静かな波が、確実に広がっている。
夕刻。廊下で第一王子と第二王子がすれ違う。
「随分と、支持を集めているようだな」
第一王子の声は穏やかだ。廊下で会うことを、待っていた気配がある。
「事実が評価されただけです」
レオンハルトは動じない。歩みを止めずに、半歩だけ間合いを取った。
「事実は、見せ方次第だ」
鋭い視線だった。見せ方、という語に、この人の政治の全部がある。
「お前は、あの女を前面に出しすぎだ」
一瞬、空気が凍る。あの女、という呼び方を、兄は初めて口にした。
「補佐官です」
「補佐官にしては、目立ちすぎる」
静かな圧だった。声を荒げない分、周囲の耳に残らない言い方でもある。
「王位を望むなら、感情は切り捨てろ」
核心を突く。レオンハルトの目が、わずかに細まる。
「感情で動いているわけではありません」
「ならば」
第一王子は低く言う。ならば、の先を言うまでに、一歩ぶんの間があった。
「証明しろ」
去っていく背中。その言葉は、挑戦状だった。
夜。執務室。
「若手貴族から非公式の支持表明が来ています」
カイルが言う。非公式、という形でしか出せない段階だということでもある。
「正式に動けば、派閥が割れます」
「まだ早い」
レオンハルトは静かに言う。支持は、受け取り方を誤れば人数ぶんの負債になる。
「焦れば、兄上の思う壺だ」
エリシアは、書類を閉じる。閉じてから、もう一度開き直したくなった。
「均衡が崩れ始めています」
「ええ」
短い肯定だった。崩れ始めた、という認識だけは、二人とも同じだ。
「これはもう、港の問題ではありません」
視線が交わる。言葉にしないままにしていたことを、彼女が先に置いた。
「王位の問題です」
沈黙。触れない距離。だが今は、それ以上に重い空気が流れていた。
「後戻りはできません」
エリシアが言う。港で同じ言葉を口にした日から、まだ十日と経っていない。
「承知しています」
レオンハルトの声は静かだが、決意を帯びている。
その夜、レオンハルトは中庭の話を持ち出さなかった。若手に囲まれていた彼女を、遠くから見ていたことも言わない。
代わりに、明日の資料はもう見なくていい、とだけ言った。
エリシアは灯りを落とし、それでも一枚だけ持ち帰った。持ち帰った理由を、自分でもうまく説明できなかった。
王宮に亀裂が入ります。
港の話がいつのまにか王位の話にすり替わっている、という進み方をさせました。政治で怖いのは、誰かが陰謀を巡らせることよりも、扱っている案件の意味が勝手に大きくなっていくことのほうだと思うので。
後戻りできないという言葉自体は前にも出てきますが、ここでは相手が兄になっています。




