第43話 揺れる心
夜の執務室は、灯りが少なかった。
書類は山積み。
だが、いつもの静かな集中とは違う空気がある。
「若手の支持が増えています」
カイルが報告を終え、退出する。
扉が閉まる。
残るのは二人だけ。
沈黙が落ちる。
「殿下」
エリシアが、静かに口を開く。
「若手の動きは、私の存在が理由の一部です」
「港の成果が理由です」
即答。
「ですが」
視線を落とす。
「第一王子殿下は、私を標的にしています」
事実。
攻撃は、彼女を通して第二王子へ向けられている。
「それが戦略です」
レオンハルトは淡々と返す。
「戦略として正しい」
一瞬の沈黙。
「ならば」
エリシアは続ける。
「私は一歩退くべきでは」
空気が止まる。
「何を言っている」
声は低い。
「私が距離を置けば、殿下への攻撃は和らぐ可能性があります」
「可能性だ」
「政治は可能性で動きます」
まっすぐに言う。
「私がいることで、王位争いは加速しています」
事実だ。
港での成功。
補佐官審議。
若手貴族の支持。
すべて彼女の存在と結びついている。
「……退くとは、何を意味する」
「補佐官を一時辞退します」
静かな宣言。
「影響を最小限に」
一瞬。
彼の表情が変わる。
怒りではない。
困惑でもない。
それよりも深い、何か。
「それが、あなたの結論か」
「合理的です」
淡々と答える。
「合理的、か」
彼はゆっくりと立ち上がる。
距離が縮まる。
だが触れない。
「港で、残ると決めたのは誰だ」
「私です」
「王宮で、隣に立つと決めたのは」
「私です」
「ではなぜ、今退く」
低い声。
「……殿下の負担を減らすためです」
沈黙。
長い沈黙。
「負担だと?」
「第一王子殿下は、私を感情の象徴として扱っています」
それは事実だ。
「王位を争う上で、弱点になり得ます」
言葉は冷静。
だが胸の奥は、痛む。
レオンハルトは、ゆっくりと息を吐く。
「あなたは」
低く、静かに。
「私の弱点ではない」
視線が絡む。
「むしろ」
一瞬、言葉を探す。
「強みだ」
エリシアの呼吸が止まる。
「だが」
彼は続ける。
「兄上は、そこを突いてくる」
静かな事実。
「だからこそ、退くべきではありません」
「……え」
「退けば、弱点であると認めることになる」
はっきりと言う。
「私は、あなたを守るために戦っているのではない」
一瞬、胸が締まる。
「国を守るためだ」
淡々とした言葉。
だが、その奥にあるものを感じ取る。
「あなたがいなくなれば、判断が鈍る」
視線が揺れない。
「それは政治的損失だ」
合理的な理由。
それ以上でも、それ以下でもないように聞こえる。
エリシアは、ゆっくりと頷く。
「……承知しました」
距離が、ほんのわずかに広がる。
感情を抑えた空気。
「退きません」
「ええ」
短い肯定。
だが。
何かが、わずかにずれた。
合理。
必要。
強み。
どれも正しい。
だが――
それだけなのか。
夜の廊下を歩きながら、エリシアは自問する。
足枷ではない。
強みだと言われた。
嬉しいはずなのに。
胸の奥が、なぜか静かに揺れていた。
一方、執務室に残ったレオンハルトは、拳を握る。
「……違う」
小さく呟く。
政治的理由ではない。
本当は。
いなくなることを、想像したくなかっただけだ。
だがその言葉は、飲み込んだ。
戦いは激化する。
感情は、まだ名を持たない。
けれど確実に、揺れている。




