第38話 帰還
王都の門をくぐった瞬間、空気が違った。港の潮風とは違う、乾いた緊張。石畳を進む馬車の音が、やけに響く。
エリシアは、窓越しに王宮を見上げた。変わらぬ白い壁。だが、戻ってきた自分の立場は、以前とは違う。
「噂は、すでに広がっています」
カイルが低く言う。門番の詰所で交わされた挨拶の温度を、彼はもう測り終えていた。
「港での件、召還拒否、予備費使用」
「ええ」
エリシアは静かに頷く。噂の順番まで、ほぼ言い当てられていた。
「第二王子が民衆を煽った、とも」
小さく息を吐く。予想通りだ。煽ったと言われるのが、いちばん反証しにくい。
馬車が止まる。王宮の玄関前。侍従や文官の視線が、一斉に向く。以前は無関心だった視線が、今は違う。評価と警戒が混ざっている。
「殿下」
エリシアが小さく声をかける。玄関の石段は、港の桟橋より人の目が多い。
「距離を」
「ええ」
短い返答だった。並んでいた二人は、わずかに間を空ける。公的距離。王宮内では必要な線だ。だがそのわずかな空白が、逆に強調される。
「第二王子殿下」
第一王子派の管理官が現れる。待っていたことを隠す気のない現れ方だった。
「帰還、確認いたしました」
形式的な礼だった。頭の下がる角度が、去年より浅い。
「王族会議は明日午前」
「承知しています」
淡々とした応答。視線がエリシアへ向く。
「補佐官殿も同席予定ですが」
一瞬の間があった。言い淀んだのではない。効かせるための間だ。
「資格審議が行われる可能性がございます」
はっきりとした牽制だった。
「理解しています」
エリシアは答える。声は揺れない。管理官は小さく頭を下げ、去っていく。
王宮の廊下を歩く。ざわめきが止まる。視線が追う。
「歓迎されてはいませんね」
エリシアが静かに言う。廊下の端に寄る癖が、王宮に戻った途端に戻っていた。
「歓迎は不要です」
レオンハルトは前を見たまま答える。歓迎という語を、この人は一度も欲しがらない。
「必要なのは、結果です」
その声は変わらない。だが、彼の歩幅が、ほんのわずかにエリシアに合わせられている。気づく。何も言わない。
執務室へ入ると、机の上にはすでに書類の山があった。
「告発書です」
カイルが一枚を差し出す。第一王子名義。内容は予想通りだった。王命軽視。財政独断。補佐官越権。
エリシアは、静かに目を通す。三つとも、事実を並べれば成立してしまう項目だ。
「……来ましたね」
「ええ」
レオンハルトは椅子に腰を下ろす。告発書の綴じ目を、指で一度だけ整えた。
「想定内です」
「殿下」
エリシアは顔を上げる。言えば止められると分かっていて、それでも口にした。
「明日の会議、私は退席すべきかと」
一瞬、空気が止まる。カイルが書類をめくる手を、途中で止めていた。
「なぜですか」
「資格審議があるなら、殿下の立場が」
「関係ありません」
即答だった。だが声は穏やかだ。
「あなたは補佐官です」
「ですが」
「私が選んだ」
短い言葉だった。それ以上の説明はない。エリシアの胸が、わずかに締めつけられる。
「……承知しました」
公的な返答をした。だが内側では、別の感情が揺れる。
夜。王宮の灯りが落ちる頃。エリシアは一人、廊下を歩いていた。港での歓声が、まだ耳に残っている。だがここでは、冷たい視線だけだ。
「後悔は」
不意に声がする。振り向くと、レオンハルト。
「ありません」
即答した。だが続ける。
「ただ」
「ただ?」
「ここは、港より冷たい」
小さな本音だった。彼は、わずかに笑う。
「慣れています」
「私は慣れません」
正直な言葉。一瞬の沈黙が落ちた。
「明日、何があっても」
彼が静かに言う。灯りの落ちた廊下で、声だけがはっきりしていた。
「あなたを切り離すことはありません」
廊下の灯りが、揺れる。公の場では言えない言葉だった。
「……殿下」
「これは命令ではない」
一歩、近づく。触れない距離だ。
「私の意思です」
心臓が、強く鳴る。王宮の冷たい空気の中で、確かに温度がある。エリシアは、ゆっくりと頷いた。
「明日も、隣に立ちます」
「ええ」
短い肯定だった。王宮は静かだ。
立ち去りぎわ、レオンハルトは振り返らずに、明日あなたが何を言っても私は否定しない、とだけ言った。返事をする前に、足音は遠ざかっていた。
否定しない、が肯定と同じ意味なのかどうかを、エリシアは廊下に立ったまま考えていた。




