第34話 傷
暴動は、計算された混乱だった。
資金凍結の噂が広がった翌日。港の倉庫前で、労働者と商人の口論が始まる。
「補助金が止まるのは、お前たちのせいだ!」
「違う、王宮の争いだ!」
怒号が飛び交う。セリーナが必死に抑えようとするが、背後で誰かが叫んだ。
「証拠を隠している!」
瞬間、空気が変わる。倉庫へ向けて石が投げられた。混乱は連鎖する。
「下がってください!」
カイルが叫ぶ。だがエリシアは、一歩前へ出ていた。
「話を聞いてください!」
声を張る。届く声量ではないと分かっていて、それでも張った。
「資金は戻ります。調査は――」
その瞬間。倉庫の上部から、何かが落ちる。木片。避けきれない。
「――危ない!」
強い衝撃。視界が揺れる。次の瞬間、地面の感触。腕に鋭い痛みが走る。誰かの腕が、強く身体を引き寄せる。
「無茶をするな!」
低く、押し殺した声。レオンハルトだった。彼の腕の中で、エリシアは息を整える。
「……大丈夫、です」
だが袖が赤く染まっている。
「医師を!」
カイルが叫ぶ。混乱は兵の制止で鎮まっていく。だがその間も、レオンハルトの手は離れない。
「傷は」
「浅いです」
エリシアは答える。だが彼の表情は険しい。
港湾医師マリオスが駆けつける。荷を扱う男たちの怪我を、日に何度も診ている手つきだった。
「腕を見せてください」
手際よく布を切り、止血する。
「打撲と裂傷。深くはない」
淡々と告げる。診断に感情を混ぜない話し方は、どこか誰かに似ていた。
「安静が必要です」
レオンハルトは、ようやく手を離した。だが視線は外さない。
「なぜ前に出た」
声は低い。
「必要だったからです」
「あなたが傷つけば意味がない」
はっきりとした言葉だった。エリシアは、少しだけ目を見開く。怒りではない。焦りだ。
「私は駒ではありません」
静かに返す。
「分かっている」
即答だった。
「だからこそ、失いたくない」
一瞬、沈黙が落ちる。その言葉は、政治的なものではなかった。エリシアの鼓動が早まる。
マリオスが包帯を巻きながら言う。手を止めずに、独り言のような調子で。
「理想を語る者は、石を投げられやすい」
冷静な声だった。
「だが、止まれば信頼は失う」
視線がレオンハルトへ向く。
「どちらを選ぶかです」
レオンハルトは、しばらく黙っていた。やがて、低く言う。
「共に立つ」
短い言葉だった。だが強い。エリシアは、小さく息を吐いた。
「……ありがとうございます」
暴動は鎮まり、港は静けさを取り戻す。だが、確実に誰かが仕掛けた混乱だった。密輸側が動いた。そして、エリシアは初めて、自覚する。自分の存在が、ここまで波を立てていることを。
夜。臨時の執務室。
「次は、もっと直接的になります」
カイルが言う。
「ええ」
エリシアは頷く。だが隣に立つレオンハルトの気配は、いつもより近い。触れない。触れないが、確実に距離は変わった。
傷は浅い。だが残ったものは大きい。失うかもしれないという予感。それは、静かな関係に、確かな輪郭を与えていた。




