第33話 すれ違い
外交船は、まだ港に停泊していた。資金凍結の報が流れた翌日。ルーカス・ハーゼンは、まるでそれを待っていたかのように現れた。
「お困りのようですね」
穏やかな微笑みだった。困っている、と言われた側が返す言葉は、たいてい二つしかない。エリシアは、表情を崩さない。
「状況は流動的です」
「我が国としては、港湾機能の安定を望みます」
遠回しな提案だった。安定、という語を、こちらの弱みの上に置いてくる。
「一時的な資金融通も可能です」
カイルが眉をひそめる。それは助けではない。貸しだ。しかも、返す条件がまだ書かれていない貸しだった。
「正式な協議を経る必要があります」
エリシアは冷静に答える。断るのではなく、手順の話へ移し替える言い方を選んだ。
「もちろん」
ルーカスは頷く。頷き方が早すぎて、断られる想定も済んでいるのだと分かる。
「ですが、時間は味方ではない」
その視線が、柔らかく細まる。
「あなたは理解しているでしょう」
言外に含まれる信頼。褒めることで、こちらを孤立させる話し方でもある。
「判断が速い」
静かな称賛だった。エリシアは、わずかに息を整える。
「港を守るための最善を探っています」
「あなた自身は?」
不意の問い。用意していた答えの外側から来た。
「何を守りたいのですか」
一瞬、言葉が詰まる。守りたいものを訊かれたのは、王宮に入ってから初めてだった。
「……国です」
「それだけですか」
穏やかな声だった。だが、試すような響きがある。その時だった。
「協議は私が行います」
背後からの声だった。レオンハルト。足音を立てずに来る人ではないのに、気づかなかった。視線が交わる。
「殿下」
エリシアは一礼する。いつからそこにいたのかは、分からなかった。
ルーカスは、ほんのわずかに笑みを深めた。
「第二王子殿下。優秀な補佐官をお持ちですね」
「承知しています」
淡々と返す。空気が、ほんの少しだけ硬くなる。
「彼女は、数字だけではなく、現場を見ている」
ルーカスは続ける。
「貴重な存在です」
「評価は不要です」
短い返答だった。
「彼女の価値は、私が理解しています」
その一言に、空気が静かに揺れた。エリシアの胸が、わずかに熱を帯びる。ルーカスは、軽く肩をすくめた。
「失礼」
去っていく背中。桟橋の板が、その歩調で規則正しく鳴った。静寂が戻る。
「……不用意でした」
エリシアが言う。
「何が」
「二人きりで話すべきではありませんでした」
レオンハルトは、少しだけ視線を逸らす。逸らしたことに、本人が一拍遅れて気づいた。
「外交官です。会話は避けられません」
「ですが」
「問題ありません」
即答だった。だが声は、ほんのわずかに低い。沈黙。海風が吹き抜ける。
「殿下」
「何ですか」
「先ほどの言葉」
彼女は続ける。訊いていいのかどうかを、言いながら決めていた。
「……私の価値を理解している、と」
「事実です」
簡潔な返答だった。
「疑う必要はありません」
その言葉は冷静だ。だが、その奥にあるものを、エリシアは感じ取る。所有ではない。だが、他者に奪わせない意志。
「外交は私が担当します」
レオンハルトは言う。
「あなたは港の再設計に集中してください」
「承知しました」
役割分担。それだけだった。だが、背を向けた彼の足取りが、ほんのわずかに速いことに、エリシアは気づいていた。
一方。レオンハルトは歩きながら、自問する。なぜ、あのやり取りが気になったのか。外交上の警戒。それで説明はつく。だが、それだけではない。胸の奥に残る、わずかなざらつき。
「……不要な感情だ」
小さく呟く。だが完全には消えない。
その夜、エリシアの机には港の見取り図が一枚、無言で置かれていた。ルーカスの船が着いた桟橋に、細い印がついている。
誰が置いたのかは書かれていない。書かれていないことのほうを、彼女はしばらく見ていた。
助けの顔をした貸し、の回です。
ルーカスは脅してきません。困っているところに、条件のいい話を持ってくるだけです。断る理由を説明するほうが難しい種類の相手として置きました。
そのあとに残る、説明のつかないざらつきのほうが、この回の本題です。




