第28話 雨の倉庫
裏積み出し場へ向かう途中で、空が崩れた。港特有の、突然の豪雨だった。海風と共に叩きつける雨粒が、視界を奪う。
「こちらへ!」
セリーナの指示で、近くの倉庫へ駆け込む。扉が閉まった瞬間、外界の音が鈍くなる。薄暗い倉庫の中。木箱の匂いと湿った空気。
随行の文官たちは別の区画で雨宿りしている。この一角には、エリシアとレオンハルトだけ。静かな空間だった。雨音だけが屋根を打つ。
「……間が悪いですね」
エリシアが小さく笑う。裾から滴が落ちて、床の埃に丸い跡を作った。
「好都合かもしれません」
レオンハルトは外を見ながら言う。雨に降られて機嫌を損ねない人だ、と改めて思う。
「人目が減ります」
仕事の話だった。だがその声は、どこか柔らかい。
エリシアは、濡れた袖を軽く絞る。疲労が、じわりと身体に溜まっているのを自覚する。
「顔色が悪い」
不意に言われる。倉庫の薄暗がりで、よく見えるはずもないのに。
「そうですか」
「無理をしている」
断定だった。人の様子を、数字と同じ精度で見る人なのだと思う。エリシアは、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。
「……少しだけ」
正直な言葉が零れる。雨音があるぶん、言いやすかったのかもしれない。
「思っていたより、重いです」
「密輸の件ですか」
「それもあります」
だが本音は別だった。
「王宮の戦いが、ここまで広がっていることが」
海の向こうを見つめる。雨で、水平線は消えている。
「もし王宮内部が関与しているなら、これは派閥の問題ではありません」
「王位の問題になる」
「はい」
言葉にした瞬間、重みが増す。沈黙。雨音が強くなる。
「後悔していますか」
静かな問いだった。エリシアは、首を横に振る。
「いいえ」
迷いはない。ここまで来て引き返す道は、もう用意されていない。
「ですが……怖いとは思います」
それは初めて見せる弱さだった。王宮では決して口にしなかった言葉。レオンハルトは、彼女を見つめる。
「怖いのは、正常です」
低い声。
「怖くない方が、危険だ」
一歩、距離が近づく。近づいて、そこで止まった。
「あなた一人に背負わせるつもりはありません」
その言葉は、政治的配慮ではない。個人としての宣言だった。エリシアの胸が、強く鳴る。
「……私は」
言葉が詰まる。返す言葉を探しているのに、出てくるのは礼の形ばかりだった。
「あなたが傷つくことは、許容できません」
はっきりとした声だった。雨音が、一瞬遠のいたように感じる。視線が絡む。近い。だが触れない。触れない距離だからこそ、熱を帯びる。
「殿下は」
小さく笑う。笑わなければ、目の縁が熱くなりそうだった。
「ずるいですね」
「何が」
「そうやって、迷いを減らす言葉を選ぶ」
ほんの少しだけ、空気が柔らぐ。レオンハルトは、珍しく苦笑した。
「計算ではありません」
「信じます」
即答だった。それがどれほど重い言葉か、二人とも分かっている。
雨が、少し弱まる。倉庫の外に、光が戻り始める。エリシアは、深く息を吸った。
「行きましょう」
迷いは消えている。
「はい」
扉が開く。湿った空気の向こうに、再び港の喧騒。だが何かが変わっていた。
先に出ようとして、二人は同時に足を止めた。どちらが先でもよかったはずなのに、譲り合って、結局は横に並んで出た。
肩は触れない。触れないぶんだけ、雨の匂いがよく分かった。




