第25話 馬車の中の静寂
王都を離れて半日。馬車はなだらかな街道を進んでいた。
視察は最小限の随行で行われている。警備と数名の文官は別車両。主車両には、第二王子とエリシアのみ。静かな空間だった。車輪の音と、時折揺れる窓枠の軋み。
王宮では常に誰かの気配があった。だが今は、互いの呼吸が聞こえる距離にいる。
「揺れますね」
エリシアが、窓から視線を戻して言う。
「舗装はまだ途中のようです」
レオンハルトは淡々と答える。会話は事務的だった。だが、どこか柔らかい。
沈黙が落ちる。不快ではない。むしろ、心地よい静けさだった。
ふと、馬車が大きく揺れた。
「……っ」
エリシアの身体がわずかに傾く。反射的に伸びた手が、彼女の腕を支えた。一瞬、距離が近づく。
「失礼」
すぐに離れる。だが、触れた場所が熱い。
「ありがとうございます」
声は落ち着いているが、指先がわずかに強張る。再び静寂。しばらくして、レオンハルトが口を開いた。
「疲れていませんか」
「いえ」
即答したものの、ほんのわずかに視線を逸らす。王宮を出る前から、緊張は続いている。対立は王宮内に置いてきたつもりでも、完全に離れたわけではない。
「……少しだけ」
正直な言葉が、零れた。
「予想以上に、重いですね」
「何が」
「責任が」
視線は窓の外へ。街道の脇に、荷を積んだ車が何台も止まっている。
「王宮内での判断は、まだ数字の中にありました。ですが、現地へ行くということは――」
言葉を探す。
「人の顔が見える」
沈黙。レオンハルトは、しばらく考えてから言った。
「それは、避けるべきことではありません」
「分かっています」
「あなたは、向いています」
その一言に、エリシアは顔を上げる。
「根拠は」
「数字の向こうを想像するからです」
静かな断言だった。王宮では、合理性が評価される。だが今、彼が評価しているのは、別の部分だった。
「あなたが傷つくことは、本意ではありません」
低い声。エリシアの胸が、強く鳴る。それは政治的配慮ではない。個人的な響きだった。
「……殿下は」
言いかけて、言葉を飲み込む。
「何ですか」
「どうして、私を」
最後まで言えなかった。なぜ、拾ったのか。なぜ、任せるのか。なぜ、守るのか。
レオンハルトは、少しだけ視線を外す。答えを探したのではなく、答えのどこまでを言うかを選んでいた。
「必要だったからです」
即答だった。だが、それだけではない。
「そして」
一拍。
「信頼できるからです」
それ以上は言わない。だが十分だった。
馬車の揺れが、少し穏やかになる。窓の外には、遠く海の気配が見え始めていた。王宮の石壁の中では生まれなかった時間だ。
言葉は少ない。だが距離は、確実に縮まっている。エリシアは、静かに息を吐いた。
「……ありがとうございます」
それは、補佐としての礼ではない。個人としての、感謝だった。
馬車は、港湾都市リゼルへと進む。
腕を支えられた場所が、まだ熱を持っている。エリシアはそこへ触れないまま、窓の外へ視線を戻した。
信頼できるから、と彼は言った。その前に一度、言葉を切ったことのほうが、耳に残っている。何を飲み込んだのかは、訊けなかった。




