第13話 それでも、まだ足りない
評価が形になった翌日から、執務室の空気は微妙に変わっていた。
露骨な称賛はない。
だが、無視されることもなくなった。
書類を渡すときの一言。
確認事項を尋ねる声。
ほんの小さなやり取りの積み重ねが、確かに増えている。
「……ここ、どう思う?」
昼前、若い文官が資料を差し出しながら、エリシアに問いかけた。
以前なら、考えられなかったことだ。
「確認します」
そう答え、内容に目を通す。
数字の組み方は悪くない。
だが、前提条件が楽観的すぎる。
「この条件が崩れた場合、第二案はありますか」
「……いや、そこまでは」
「なら、最低限の代替案を用意した方がいいと思います」
淡々とした指摘。
若い文官は、一瞬だけ戸惑い、それから頷いた。
「……分かった。ありがとう」
それだけ言って、席へ戻っていく。
胸の奥で、小さく何かが整うのを感じた。
――私は、仕事として頼られている。
それは、救われる感情とは違う。
だが、確かな足場だった。
午後、カイル・エルドが執務室を訪れた。
「殿下」
「どうしました」
「第一王子側で、少し動きがあります」
エリシアは、思わず視線を上げた。
「最近、案件処理が滞っている。原因を探っているようです」
カイルは、ちらりとエリシアを見る。
「……名前が、出始めています」
一瞬、胸が強く脈打った。
「正確には、『以前は誰が処理していたのか』という形ですが」
それは、疑問であり、違和感であり、そして――警戒だ。
「殿下は、どうされますか」
レオンハルトは、少し考えてから言った。
「特に何もしません」
即答ではない。
だが、迷いもない。
「こちらから動けば、向こうは確信を持つ。今はまだ、気づかせる段階ではありません」
カイルは、短く息を吐いた。
「……承知しました」
彼が去った後、室内は再び静かになった。
エリシアは、机の上の書類に視線を落としながら、ゆっくりと考える。
――見つかった。
まだ、完全ではない。
だが、もう隠れきれない。
それは、怖さと同時に、不思議な高揚感も伴っていた。
「不安ですか」
レオンハルトの声が、静かにかかる。
「……少し」
正直に答えた。
「ですが、逃げたいとは思いません」
その言葉に、彼は小さく頷く。
「それでいい」
そして、淡々と続ける。
「あなたは今、“役に立つ補佐”ではあります。ですが――」
言葉を切る。
「まだ、“替えがきく存在”です」
胸に、冷たいものが落ちた。
否定ではない。
事実だ。
「第一王子側が本格的に動けば、あなたを排除する理由はいくらでも作れます」
「……はい」
「それに抗うには、もう一段階、必要です」
レオンハルトは、書類の一つを指で叩いた。
「あなたにしかできない判断」
「あなたにしか見えない視点」
「あなたがいることでしか成立しない構造」
静かな声。
「それを、作ってください」
要求は、重かった。
だが、不思議と理不尽には感じなかった。
エリシアは、深く息を吸う。
「……まだ、足りないのですね」
「ええ」
即答。
「ですが、ここまで来たのは、あなた自身です」
その言葉が、胸の奥に残った。
夕方、執務室を出ると、王宮の回廊には人の気配があった。
以前なら、視線を逸らされていた場所。
今は、何人かが一瞬、こちらを見てから、何事もなかったように通り過ぎていく。
無関心ではない。
だが、敵意でもない。
それが、いちばん厄介な状態だと、エリシアは理解していた。
――これから、本当の勝負が始まる。
第一王子が、自分の名をはっきりと認識したとき。
きっと、何かが仕掛けられる。
それでも。
エリシアは、歩みを止めなかった。
捨てられた場所で立ち止まるのではなく、
選び直した場所で、前へ進むために。
第二王子の執務室の灯りが、背後で静かに輝いていた。




