第14話 第一王子の違和感
第一王子アルベルト・フォン・クラウゼは、机の上の書類を乱暴に閉じた。
「……遅い」
低く呟く。報告の上がりが、以前より確実に遅れている。致命的ではない。だが、微妙に噛み合わない。かつては、ここまで滞ることはなかった。
「本日の案件は以上です」
第一王子側実務官、ユリア・フェルゼンが静かに告げる。アルベルトは頷いたが、視線は別のところにあった。
「最近、妙だと思わないか」
問いは曖昧だったが、ユリアはすぐに察した。同じ問いを、彼女自身も三日前から抱えていたからだ。
「処理速度、でしょうか」
「ああ」
椅子にもたれかかる。背もたれが、以前より軋むようになった気がした。
「以前は、もう少し滑らかだった」
言葉にしてから、違和感がはっきりする。滑らかだったのだ。指示を出せば、余計な説明は不要だった。数字は整い、問題は事前に潰されていた。
――誰がやっていた?
その疑問が、胸に浮かぶ。浮かんだ瞬間に、答えの見当がついてしまった。
「以前の担当者は」
アルベルトは、視線を上げた。訊かなくてもいいことを訊いている、という自覚はあった。
「誰だった?」
室内が、わずかに静まる。ユリアは、資料をめくりながら答える。
「形式上は、複数の文官による分担処理です。ただ……」
「ただ?」
「実務の整理に関しては、以前は補佐が入っていたと聞いています」
「補佐?」
アルベルトの眉が動く。補佐という語は、自分の執務室の名簿には無い。
「誰だ」
一瞬の間があった。言ってよいかどうかを測る間だった。
「……エリシア様です」
空気が、止まった。その名は、数か月前まで日常の中にあった。今は、意図的に思い出さない名前だ。
「……は?」
低い声だった。聞き返したのではなく、聞き違いであってほしかっただけだ。
「彼女は、表には出ませんでしたが、書類整理や下準備を担当していたとのことです」
アルベルトは、笑った。笑ってから、笑い声が部屋に長く残ることに気づいた。
「馬鹿な」
否定は即座だった。考える時間を置けば、置いた分だけ認めたことになる。
「彼女は、社交も満足にできない地味な女だ。あの程度で、私の執務が回っていたとでも言うのか」
言葉に棘が混じる。だが、胸の奥に、小さなざらつきが残る。
「しかし、数字の整合性や事前整理の精度は、当時の方が高かったと」
ユリアは淡々と続けた。手元の紙には、当時の処理日数が月ごとに並んでいる。
「現在、第二王子殿下の執務室で、同様の整理が行われているとの報告もあります」
アルベルトの指先が、机を軽く叩く。三度叩いて、止まった。
「……どういうことだ」
「具体的な証拠はありません。ただ、案件の差し戻し理由が、いずれも“将来的破綻の回避”に集中しています」
静かな説明だった。ユリアは意見を言わない。並べた事実のほうに、言わせている。
「以前、殿下の執務室でも、同様の指摘が多かった記録があります」
沈黙。アルベルトは、視線を落とした。脳裏に、あの夜の光景がよぎる。婚約破棄の場で、何も言わず、ただ一礼した姿。泣きもせず、取り乱しもせず。
あのとき、自分は確かに思ったのだ。
――不要だと。
だが。
「……偶然だ」
自分に言い聞かせるように呟く。誰にも聞かせるつもりのない声量だった。
「彼女一人で、執務が回るはずがない」
「もちろん、殿下」
ユリアは即座に同意する。同意が早すぎることに、本人は気づいていない。
「ですが、念のため、現状の情報整理をしておくべきかと」
アルベルトは、しばらく考え込んだ。不快感が、じわりと広がる。捨てたはずの存在が、別の場所で機能している。それも、自分の足りない部分を補う形で。
それは、単なる偶然か。それとも。
「……調べろ」
短い命令だった。調べろ、という語を選んだ時点で、答えを疑っていることになる。
「第二王子の執務室の処理状況。特に、あの女の動きだ」
ユリアは一礼する。顔を上げるまでの間が、いつもより長かった。
「承知しました」
扉が閉まった後も、アルベルトは動かなかった。机の上の書類を、再び開く。数字を追う。だが、視界の端で、別の疑問が揺れる。
もし、あの女が本当に機能していたのだとしたら。
――私は、何を切り捨てた?
その思考を、アルベルトは即座に振り払った。
「あり得ない」
そう言い切る。だが、違和感は、消えなかった。




