第121話 番外編 労いの言葉
完結後の、小さな後日談です。
派手な事件は起きません。戦のあとの、静かな片づけの日々の話です。
戦のあとの王宮は、驚くほど静かだった。
崩れた石は片づけられ、焦げた匂いも薄れていく。それでも、終わったわけではない。終わったのは戦いで、始まったのは再編だ。数字の上では、これからが本番だった。
エリシア・フォン・アルヴェーンは、いつもの席で帳簿を繰っていた。
被害の集計、支援の割り振り、崩れた経路の組み直し。派手さのない仕事が、机の上に山を作っている。誰かが見ていなくても、誰かに褒められなくても、必要だから手を動かす。それが彼女の性分だった。
窓の外は、冬の入り口の色をしている。
もう、ずいぶん長く働いている気がした。けれど時計を見れば、まだ日は高い。時間の感覚が鈍るほど紙に埋もれていたのだと、他人事のように思う。
「……エリシア」
名を呼ばれて、顔を上げる。
執務室の主――レオンハルトが、書類から目を離してこちらを見ていた。第二王子。彼女が隣に立つと決めた人。
「何か、不備がありましたか」
反射のように、そう返していた。
呼ばれるということは、直すべきものがあるということ。長く、そういう場所にいた。評価は結果のみ。労われることは、期待しない。それが当たり前になって、もう痛みもしない古い癖だ。
ところがレオンハルトは、首を横に振った。
「いや」
そして、少しの間を置いてから、静かに言った。
「よくやった」
エリシアは、その言葉の意味を、一拍おいてから理解した。
「……不備の指摘、では」
「ない」
彼は書類を置く。
「不備を探すためではなく、労うために呼んだ」
労う。
その言葉が、胸の奥のどこかに触れた。
――以前なら添えられていたはずの、短い労りの言葉。
いつだったか。婚約者の名で届いた事務的な招待状に、それが無いことに気づいて、胸がひやりと冷えた夜があった。無くて当たり前だと、いつの間にか自分に言い聞かせるようになっていた。数字は嘘をつかないが、数字は誰も労わない。だから期待しない。そう決めていたはずだった。
なのに、たった一言で、決めていたことが揺れる。
「……私は、必要な仕事をしただけです」
声が、自分でも驚くほど平坦になった。取り乱すつもりはない。それだけは、昔から決めている。
「知っている」
レオンハルトは頷いた。
「必要なことを、誰にも見えないところで、ずっとしてきた」
窓の光が、机の紙束を白く照らす。
「見えないなら、私が言う」
彼は、まっすぐにこちらを見ていた。第一王子の隣で書類を捌いていた頃には、一度も向けられなかった種類の視線だった。
「よくやった、エリシア。……ありがとう」
喉の奥が、わずかに熱くなる。
泣くほどのことではない。ただの、短い言葉だ。けれどその短さが、長く欠けていた場所に、ちょうど収まってしまった。
「……もったいないお言葉です」
やっと、それだけ言えた。
レオンハルトは、小さく笑った。触れはしない。手を取るでも、距離を詰めるでもない。港の広場で並んで立ったあの日と同じ、触れない距離。
けれど、半歩だけ近い気がした。
言葉は、触れずに届くものらしい。
「休め。少しでいい」
彼はそう言って、また書類に目を戻す。まるで、彼女がここにいることが当然であるかのように。
エリシアは、帳簿をそっと閉じた。
窓の外では、人が動いている。瓦礫を運ぶ者、家を建て直す者、笑い声を上げる子ども。止まっていない。均衡は、これからも作り直され続けるのだろう。完成しないものを、その都度。
その隣で、自分は数字を積む。
誰にも見えなくても――今日は、ひとりだけ、見ていてくれる人がいる。
それで、十分だった。
冷めかけた茶に口をつける。少しだけ、甘い気がした。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
第1話で欠けていた「労りの言葉」を、静かに埋める後日談でした。
均衡はこれからも続いていきます。その隣で、二人はきっと今日も数字を積んでいます。
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