第128話 狂気乱舞
十年前。
当時、陰陽道の大家であり、実質的に呪術師の輩出と市場への供給を独占していた土御門家。
一帯が炎に巻かれた町にて、その命運は絶たれようとしていた。
片腕を失い、膝を突いて呻く土御門 右近を見下ろしながら、仁科黎明が告げる。
「諦めろ右近。土御門はやり過ぎたんだよ。この上、悪あがきして何の意味がある」
呪術師の頂点として恥じない力を持っていた男も、しかし最強の退魔師を相手にまるで歯が立たない。嫌がらせ程度の激戦を演じるのが精々だ。
周囲を巻き込む派手な戦闘で、小さな町が災厄に見舞われていた。
「あぁ……ああ仁科黎明! 俺はお前が心底羨ましいよ! 退魔師、通力、顕術、なんだそれは? そんな不可解で曖昧で気持ちの悪いモノだけでっ!? 今や世界を呑み込もうとしているお前の才覚が羨ましいよ!!」
「……俺にそんな才覚は無い。お前が羨んでいるのは、ただのイカサマの結果だ」
「だったら俺がイカサマをしたっていいだろ!? 先の無い呪術師には劇薬が必要なんだからさぁ!!」
「町を丸ごと生贄にしようとしてまで、どんな劇薬を作ろうって言うんだ。『血の祭壇』をここまで大掛かりにしたところで、出来ることはそう多くないってのに」
呪術師の計画を事前に察知した退魔師協会が、これを阻止した。
黎明が直々に赴いたのは、『反魂』という禁術の存在に対処するため。人知れず処理しようと考えたからだ。
時期としては橘花院の隠れ里を焼き払ってすぐの出来事であり、禁術に対して神経質だったのもある。
だが、肝心の禁術はまだ発見に至っていない。どんな形態で在るのかすら不明だ。
資料を手当たり次第に焼却することも考えたが、それはどういう訳か右近が既に行った後だった。それも各地に点在する拠点ごと全て。
「俺はな、仁科黎明。これでも土御門の末裔だ。お前が思ってる以上の事が出来るんだよ……あぁ因みに、お目当ての禁術は見つからないぜ? もう残ってないから」
計画が失敗に終わり、黎明の手へ渡る前に燃やした……この時はそう考えた。
しかしそれが既に使用した後で、残すは『血の祭壇』に代わる命を焼べるだけ、という状態を指しているとは知る由もない。
その時、右近が短刀を取り出して己の心臓に突き立てた。
同時に、事前に呪術師たちへと仕込んでいた『呪い』が発動。右近に引きずられ、各地の呪術師たちが突然に、望まぬ道連れとなった。
「ごぶっ……これでも、土御門だ。陰陽道の復活と繁栄を見たかった」
「……お前なら出来ただろうに。全部が全部、間違えやがって馬鹿が」
人の命を軽んじなければ、手段を選んでいれば、狂わなければ。
ただ優秀な呪術師でいれば良かったのだ。優秀なだけなら、呪術師だろうと何だろうと、いくらでも手を貸したのに。
「後片付けはしてって、やる………じわじわ滅びる………くらい、なら………」
「…………」
最後まで、人を人とも思わない男だった。
近代に入り、呪術師は衰退を余儀なくされる。
呪術の根源である“呪力”は徐々に世界から失せ、全く性質の違う“通力”が満ち始めたのだ。
呪術師の多くは通力を操る素質に欠け、通力で行う呪術は悉く効率の悪い劣化版。必然的に呪力を得ようとした呪術師たちは、次第に非道な行為も辞さなくなっていく。
そして到頭、人命すら資源としてしまった。
これらの悪意を陸道家が感じ取り、五行家が追った事で今回の一件に至る。
土御門襲撃の最初から最後まで関与したのは仁科を含めた三家。五行一樹と陸道剣助には土御門の禁術の情報を渡し、そして秘匿させた。
呪術師に生き残りがいたとして……否、間違いなくいるであろうが。その中から恩讐や逆恨みに燃える者が現れるのは想像に難くない。
右近は見つからないと言ったが、やはり禁術が残っていると考えた時、存在自体を秘匿した方が悪用のリスクは抑えられる。それについては一樹と剣助も同意していた。
「後片付け? 信じるかよ。嘘をそのまま呪術にしちまうお前が、死に際で呪いの一つも残さないわけねーだろ」
土御門右近の死体を見下ろしながら、黎明は精一杯の恨み言を吐き捨てた。
…………
………………
……………………
同時刻、同町。
地下と思しき石造りの部屋にて。
壁の蝋燭以外に灯りの無い空間で、簡素な祭壇に横たえられた女が一人。パチリと目を開け、一糸まとわぬ姿で上半身を起こし、辺りを見回す。
祭壇の傍には数人の男女が倒れ伏している。
女にはそれが呪術……生命の同期によって死に至ったのだと分かった。
自分がこれらの命を対価に生き返ったという事実も。
「杜撰な呪法だな。こんなもので死ぬとは一体………ん?」
女は己から発せられる声に激しい違和感を覚える。
自らの馴れ親しんだ声ではない。見おろせば身体も、記憶にあるものとは似ても似つかなかった。
「これは………なるほど、肉体と知識はこいつらが用意してくれたか。『反魂』とは、陰陽が廃れた時代にしては良くやった方だな」
千年以上の昔には存在しない知識、常識が徐々に馴染んでいく。
それによると、この時代は事象の解明が進み過ぎているようだ。神秘は秘めてこそ力と成せると言うのに。
真なる陰陽道が消え去り、出来損ないの呪術を頼みに生きているともなれば、そこに転がっている連中はさぞ生き難かったことだろう。
神秘、不可思議が当たり前の世界では、そのへんの町人にすら呪いを与えるのは難しい。故に千年前であれば、眼前の呪術ではどう工夫を施しても人を死に至らしめるなど不可能だった。
現代の人間は超常の力に対して無防備なようだが、そもそも神秘を引き出す事に苦労しているなど、自分が生きていた時世では考えられない事態も起きている。
当たり前の不思議よりも深い叡智に手を掛ける陰陽師が重用された世は、遠い昔に過ぎ去ったらしい。
「たかが呪一つに生贄さえ辞さぬ時代とは……歴史に縋りたくもなるか。哀れな奴らだ」
自分が居たのは生贄が珍しくない世界だったが、大喜びで行うほど狂ってもいなかった。
折角そんな事をせずとも生きられる世の中になったのに、愚かな人間はどの時代にも居るものだ。
「嘆かわしいよな。それでも、あんたの生きてた時よりは恵まれてるんだぜ」
薄暗い部屋の隅に佇むのは体格の良い男。
最初から居たのに声も掛けず、裸の女を観察していたのなら趣味が悪いと非難するところだ。
尤も、観察されていた側は慣れない体のせいか裸体である自覚が薄く、恥じらう様子は無い。
祭壇から降りた女の身体は薄明りの中にあって滑らかなシルエットを描き、スラっと健康的でメリハリのある美を見せつけている。肩を越えるくらいの髪は吸い込まれそうな深い色だと分かるが、部屋が暗く色の識別が叶わない。
まるで……いや正に、この世のモノではない美しさを寄せ集めたかのようであった。
「因みにその身体と現代知識は俺が提供したものだが、正常に機能したようだな。使い心地はどうだ?」
「悪くはない……が、まさか恩に着ろとは言うまいな?」
「勝手に生き返らせておいて、そんなケチなことは言わねえよ。単なる確認だ。不具合があれば調整しなきゃならんし」
「……それで? 死者を呼び戻したからには用件があるのだろう。申してみろ、男よ」
「話が分かるじゃないか。だがその前に挨拶といこう」
部屋の隅……明かりの死角から進み出たのは三十代ほどの男。仕立ての良い服にループタイと、上流階級の御曹司といったイメージが湧く。
そのくせ、所作の一つ一つから溢れる自信には年季が感じられた。
「俺は稲生 平だ。とりあえず、その恰好をどうにかしないとな」
平が木製の扉をコンコンと叩くと、少年が服を持って部屋へと入って来た。
程よく覇気に欠けた表情で、別段、思うところも無く裸の女に服を差し出す。
「………これは?」
目覚めたての陰陽師は、人間味の薄い少年を指して平に尋ねる。
この気味の悪い化物は何だ、と。
始まりの陰陽師には、この少年の異質さが理解できてしまう。
ヒトでありながら人間にあるまじき存在感。
星が無理矢理に人の形を真似ているような違和感。
恐ろしい世界の裏側を覗き見るに等しい不安感。
古き時代でさえ、これほど神秘的な存在を見たことが無かった。
「陰陽師様、これは洋服という物です」
「……なに?」
平への問い掛けを拾ったのは、僅かに視線を下げた位置で目が合う化物だった。
コレ扱いが気に障ったのか、少しだけムッとした顔で嫌味を吐き出す。
「御存じではありませんか? この時代では布を纏う文化が根付いているのです。原始人ですら持ち合わせる概念なのですが……やれやれ」
「……なるほどな。この齢でこれだけの減らず口を叩けるのなら、確かに恵まれた時代であるな、平よ」
見たかと言わんばかりの平に、始まりの陰陽師は皮肉っぽく笑った。
女は少年から服を受け取り、慣れない着衣に挑む。そしてブラを片手に、これはどうやって付けるのだと少年を手招きした。
「知識はあるが、いまいち勝手がわからん。子供、手を貸せ」
「何でボクが……」
女性用下着を付けるのに少年としか見えない者を使うとは。
まだ平に頼むほうが健全だろうに。不満そうに女を見る少年は、平が助け舟を出さないことを察して仕方なく女の背後へと回った。
「ええと、この部分を引っ掛けて……」
「なんだ、苦心しているのか? 原始人でもあるまいにな」
「む………」
人間味の薄い少年ではあるが、心はしっかり備わっているようだ。反応には紛うことなく血が通っている。
相対した時は神格に近しい気配に気後れしたが、今や畏れとまではいかない。
女は少年への接し方を、凡そ見出した。
「ところで陰陽師さんよ、あんた名前はあるか?」
「あるに決まっている……と言いたいが、晴明が名を馳せた世ですら神体扱いだったのだ。本来の名など死後に失ってしまった」
「ハルアキラ……かの有名な安倍晴明か。その時世に神体とは、あんた何者だよ?」
「そう言うお前こそ、さぞ名のあるモノノケであろう。人の皮を被るとは器用だな」
「……まいったねぇ、あっさり見破られた」
そこで、少年が四苦八苦しながらも女に服を着せ終えた。ウェアとブラウス、スキニーデニムは梢の提供だ。胸周りがほんの少しだけきつく、被せるのに手を焼いた以外は見事にフィットしている。
間近で美しい女体を目にしても少年の情動に変化は無く、終始めんどくさそうだった。
「親父殿、長居は無用です。我々がこの方を保護したと知られれば、呪術師の生き残りがブチギレます」
「ってわけだ陰陽師。俺らと一緒に来てもらうぜ」
「……まぁ良いだろう。行く当てもなし、呪術師に義理立てるでもなし」
呪術師、どこまでも悲哀を誘う者たちだ。
死者に縋りついてでも叶えたい願いがあったろうに。望まぬ形とはいえ命を代償に『反魂』を成したと言うのに。
おそらく、平と少年は最初からその成果を奪うつもりでこの場にいた。
良い様に使い潰された挙句、人知れず漁夫の利をかすめ取られる事の何と理不尽なことか。
理不尽……ではあるが、結果だけ見れば稲生平とやらのやり口は鮮やかなものである。外道共の末路はさて置くとして。
「儂……我……吾輩……」
「はい? なんです」
平を先頭に地上への階段を上っているとき、僅かに遅れて歩く女からボソボソと声が漏れる。
備え付けの知識からしっくり来る言葉を探しているようであった。
「折角の二度目の生であるからな。前とは変えていきたいのだ」
「一人称なら『わたし』が無難ですよ」
「無難か……ひとまずはそれで良しとしよう。では童、私に名前を付けよ」
「名前? ボクがですか?」
「右も左も分からぬ身だ。一つ、良いのを頼むぞ」
階段の先に地上へと出られる鉄扉が見えてきた。
隙間からは炎によるオレンジ色の光がゆらゆらと差し込んでいる。炎の色が今も昔も変わらないことに、名も無き陰陽師は苦笑を禁じ得ない。
(物質の燃焼、酸化、気体にプラズマとはな……ヒトどもを褒めるべきか、嘆くべきか)
かつては神の理だったものが、ヒトの手が届く概念まで落とされている。
与えられた知識が否応なく神秘の正体を暴くのだ。今のところ、楽しみが奪われているようで気持ちが悪い。
(致し方なし。この少年に期待するとしよう)
底知れない可能性の塊。傍にいるだけで好奇心が抑えられない存在。
深淵の奥の奥を、真面目な顔で名前を考えているこの少年が覗かせてくれることを願うばかりだ。
「おぉー、協会も呪術師も派手に暴れたな。火の海とはこの事だ」
「ふむ。火の海………」
外に出ると、火と煙を吐き出す車や崩れた建物に囲まれている。
幸いと言えるのか、焼け焦げた死体といった死の気配は無い。
夕焼けの中を思わせる幻想的な空間を見て、陰陽師は素直に綺麗と評した。
「焔……で、どうでしょう」
「……私の名か?」
「貴女に合っていると思いました。取って付けたわけじゃありませんよ?」
今まさに、周りを見て綺麗という感想を抱いたばかりだ。
だからなのか、まるで自分が綺麗だと言われたように錯覚してしまう。
別に、だからどうしたという事でしかないが。早くも不可思議な感覚を少年に教えられた気分であった。
「うっとりするぐらい綺麗ですよね」
「……お前は将来、絶対に女を泣かせる」
「む、失敬な。ボクは女性を大切に扱います」
焔と名付けられた女の予言は十と余年後、見事に的中する。
ただし、己が身をもって知るとは誰も教えてくれなかったが。
★
「はぁ……あの頃は可愛かったなぁ、若」
焔は出会った日を思い返して、クスっと笑みがこぼれる。
現在では心臓に突き刺さるほどカッコよくなって……
天然物の女誑しを異性として好きになってしまうとは、自分で自分が信じられない焔であった。
「もしもーし。なにボーっとしてんのよ」
ピンクでファンシーな監禁部屋の前で、強化ガラス越しの“雷蹴脚”が焔を呼び戻す。
ヌイグルミとフリルだらけの女子部屋を前に現実逃避していた焔が、もはや手遅れの仁王立ちをする“雷蹴脚”に本題を切り出す。
「こほん。では率直に……貴女の目から見て、“白面金毛”はどう映っていますか?」
「どう、ですって? 御前様は絶対の存在よ。私と兄弟たちには母であり、逆らうなんてあり得ない御方」
「『九十九の尾』……“白面金毛”が世界に許された、生命を作り出す権能ですか」
檸梨市にて鳳仙花と名乗った蟲顔の男、加藤ミサゴが襲撃して潰した拠点型の個体など、災害級の鬼を代償も無しに生み出す不条理な能力。
上限は誰も確認していないが、山本五郎左衛門によれば最大で五十数体を同時に目撃したと、焔は聞いていた。当時、世界が終わりかねないその軍勢を、対立していた“真ノ悪”が全力で叩いたのである。
ただしそれらは、普通の殺し方では“白面金毛”の尾に戻るだけ。それこそが“白面金毛”の強みのタネだと言える。
確実に消滅させる方法を“真ノ悪”が確立させるまで、双方の対立は水面下で酷い有様であった。五郎左や士緒が“白面金毛”を蛇蝎のごとく嫌うのは、そういった歴史からだ。
「何、もしかして情報を引き出すために態々来たわけ? 私が教える筈無いでしょう。それも、“真ノ悪”なんかに。頭悪いにも程があるんじゃない?」
「質問をするのは私ではありません。貴女が、貴女にするのです」
「………はぁ?」
強い蔑みの視線が焔に向く。
隣で見張りに付いているイグナシオも言葉の意味が分からず、ピクンと眉が跳ねていた。
「答えは要りません。自らに問いなさい………“白面金毛”が今、どういう状態なのかを」
「何を言っているの? 御前様は不滅の存在で、この世界そのもので――――」
「そう、アレは世界の法則が受肉した調律機構です。本来の役目は“死神”同様、世界の維持……それが、今や何をしているのか知っているでしょう」
「世界を裏返して、それで……それで…………あ、れ?」
“雷蹴脚”の様子を見て得心がいったのか、焔が「やはり……」と呟く。
イグナシオは“白面金毛”がどういった存在なのかを黎明から聞いている。だが、たったいま行われたやり取りが何を意味するのか、何故“雷蹴脚”が狼狽しているのか、焔が何を理解したのかは分からない。
それを聞いてみたところで、イグナシオを徹底的に無視している焔が答えるとも思えない。さらに言えば、今の会話にどれほどの価値があるか定かでもないのに、弱みを見せるようなことは憚られた。
イグナシオに出来るのは、一言一句、会話中の反応を一ミリたりとも見逃さない事だけだ。
「その様子を見る限り、貴女も本心から“白面金毛”に付き従っている訳ではなさそうですね。自分で気づけたのなら、まだ救いはあるでしょう」
「御前様は、世界のバランスを取るために……増えすぎたモノを減らしたり、減ったものを……守護、したり」
「そうです。アレの不条理さが許容されていたのは世界の機構という役目があればこそ……役目を逸脱するなど、どこかが狂ってしまった。狂気の理由は貴女が知っているのでは?」
「違うっ! 狂気なんかじゃ……何か理由があって……理由が…………あったはずなのよ!!」
思い出せない、気づきたくない、もどかしい。
身体の芯を這いまわる蟲のような不快さが、“雷蹴脚”の身を捩らせ、頭を掻きむしらせる。
バンッ!
縋りつく勢いでガラスの仕切りに手を打ち付けた。
ずるずると崩れ落ち、泣き顔に怒りを浮かばせながら焔を見上げる。
「何をしたのよっ……あんたが何かしたんでしょ!?」
「そう思いたいのなら構いませんが、その苦悩からは逃げられませんよ」
「―――ぁあああああ!!!」
自分を痛めつけるように身体をぶつける。
身の内に巣食う異物感を、何としてでも排除しようとして。
「いつからか分かりますか?」
「っ…………な、に」
「遡ってみてください。記憶のどのあたりで、“白面金毛”に違和感を覚えますか?」
「…………」
記憶を探ろうと動きを止める“雷蹴脚”。
依然、辛そうに顔を歪めているが、それは焔の言葉に逆らう余裕が無いということでもある。
“雷蹴脚”には何としても思い出してもらいたい。この聞き取りは、“真ノ悪”の今後の方針に影響を及ぼすかもしれないのだから。
「十年前……そうよ、橘花院の隠れ里。それまで名前も聞いたことがなかったのに、その日いきなり………」
(やはり十年前ですか……そこに、断つべき根源があらんことを)
ここしばらくで、橘花院士緒は考えていた。
十年前の悲劇は、誰が悪かったのか。どうして起きたのか。何がそうさせたのか。
仁科黎明か、“白面金毛”か、禁術か。
士緒はそれらが気に掛かるようになったと言う。
それを知らなければ仁科にも“白面金毛”にも、気持ちよく復讐できないのだと。
「その日いきなり、御前様が言ったのよ……橘花院なんて滅んじゃえばいいのに、って」
橘花院……何故そこに繋がる? そこに何がある?
橘花院日向が久良名学園の学生であった頃、“白面金毛”と何かがあったのかも知れない。
それこそ、橘花院の一族を敵視するに足る、強い繋がりが。
「“白面金毛”が非道で冷酷な女狐なのは生まれた時から変わっていない。ですが、やはりこの十年の言動には明確な狂気がある。仁科黎明も、それを感じたかもしれませんね」
「…………」
誰に聞かせるでもない焔の独り言。だがイグナシオはしっかりと受け取っている。
黎明にとっても“白面金毛”は不安要素であり、在り方の変質ぶりを間近で感じた事があるとも語っていた。
それを踏まえれば、イグナシオがこの場に立ち会ったのは大いに意味がある。
焔の……いや、“雷蹴脚”の反応が本当ならば、裏で糸を引く何者かがいるかもしれないのだから。
「御前様が、よく笑うようになったの。笑いながら、人を手にかけるように……」
「……そうですか」
次の瞬間、イグナシオは己の目を疑う。
焔が何の抵抗も無くガラスをすり抜けて見せたのだ。
咄嗟に止めることも叶わず、慌ててイグナシオも中へと突入しようとした。
しかし、横に付いている扉を開けようとした時点で動きを止める。
中では焔が“雷蹴脚”に危害を加える様子も脱走させようとする様子も無く、ただ項垂れる“雷蹴脚”にそっと向かい合い、慈しむように顔に手を添えるだけだったからだ。
「これは有意義な時間の御礼です」
「え………あがっ!?」
唐突に額へと押し付けられたのは御礼……と言うより御札だった。
パッと見で読めそうにない文字らしきものが書かれた紙が、“雷蹴脚”の額から顎までハラリと垂れる。
〇ョンシーのような有様に、仏頂面のイグナシオも堪らず吹き出した。
「しばらく貼り付けておいてください」
「え? え?? えっと………いつまで?」
「貴女の頭がスッキリするまでです。少しずつ不快感が薄れてるでしょう?」
「ぁ、確かに……」
“白面金毛”は『九十九の尾』という権能を以て、全ての子らに一方通行の回路を通している。良い影響も悪い影響も、子らに行き渡る仕組みだ。
おまけに、子が死んでも“白面金毛”が健在なら、回路から母体へと戻ってしまうだけ。
そこで“真ノ悪”は『九十九の尾』を完全に消滅させる技術を編み出した。
焔が貼り付けた札はその廉価版。権能が否応なく押し付ける母娘の絆を断つ代物だ。
“雷蹴脚”が“白面金毛”の狂気による影響を受けているのであれば、これで自分を見失うことは無くなるだろう。
これからは完全に独立した鬼として、自由に生きられるということだ。
「権能による絆が切れた後でも“白面金毛”に付き従うのならそれも良し。その気になればまた回路を繋げられますので、好きにして構いません」
「………ねえ。あの、これ……恥ずかしいんだけど」
「この部屋に閉じ込められてる時点で、今更でしょう」
「………確かに」
“雷蹴脚”はガックリと、御札と共に今日一番の項垂れを見せる。
横目で恨みがましく睨まれたイグナシオは、笑いを堪えようと身体を震わせていた。
「私の用事は済みました。もう自堕落に戻って結構です」
「待って!」
顔を伏せたままの“雷蹴脚”が、力強い言葉で引き止める。
様々な不安を抑え込み、敵でもある女に乞うような姿勢を取ってでも。
「その……御前様に、何が起きているの?」
「碌でもない事なのは間違いないでしょう。貴女も、アレをまだ母と慕うなら覚悟しておきなさい」
「………殺すの?」
「ええ」
状況は、既に引き返せないところまで来ている。
たとえ“白面金毛”の意志に依らない暴走なのだとしても。狂気を取り除き、元の冷酷な調律者に戻れるとしても。
“真ノ悪”は、“白面金毛”を殺すだろう。
「世話を掛けるわね」
「…………」
焔は無言のまま、先と同じくガラスをすり抜け、通路を歩いて行った。
イグナシオも後に続くが、その前に“雷蹴脚”へと一瞥をくれて言葉を残す。
「自由か。無様だな」
「消えて」
ピンクの牢獄に居る様と、札を張り付けたまま項垂れている姿を指して揶揄する。
愛想の悪いイグナシオの、婉曲な祝福の言葉であった。




