第119話 エニシは結ぶ
文章がごちゃついた感あり。
読み難いかも………
厨房が吹き抜けとなり、仕方なく店内の個室へと移動した面々。
内装はいかにもな中華風。それなりの高級感が壁から床、置物に至るまでの全てから滲み出ている。
部屋の中央にあった広いテーブルを退かし、代わりにポツンと置かれた椅子……そこへぐるぐる巻きに縛り付けられた佐助花真朱が、いっそ哀れに見える程の涙目で窮地に直面していた。
「こ、これは流石に……あぅ、あんまりではないでしょうか?」
海北、鉄火、鏡の3名が椅子を取り囲み、真朱に警戒と猜疑の視線を突き刺している。
当然と言えば当然なのだ。確認していないとは言え、鉄火が真朱を“鬼”だと断言した事に対し、未だ明確な否定がされていない。
それは認めているに等しかった。
「悪いが、お前の素性がハッキリするまでは拘束させてもらう。鬼だの人間だのと煩く言うつもりは無いが、念のためだ」
「あぅ……学園長早く来て」
真朱の口から可能な限りの事情を話したのだが、冷静さを欠いた説明でいまいち要領を得ず、やむ無く事情を知る人物を呼び寄せる事にした。
流石に電話で話す内容でもなく、本来学園を離れる事の出来ない亜笠に無理を言って出向かせている所だ。
「落ち着いたのなら、もう一度自分の口から話しても良いぞ」
「……どうせ学園長からも裏を取るんですから、二度手間ですよ」
「そうだな……佐助花と言ったか。先程のアレは、お前ではない何かだった……そう考えて良いのか?」
「私でもあり、私でもなく………ちょっとややこしいんです」
「…………」
真朱からは逃げる意思を感じない。今すぐに聞き出そうとして変な地雷を踏むより、大人しく亜笠を待つべきだと鏡は判断した。
普通なら無理矢理にでも聞き出そうとする情報だが、そこは鏡の冷静で気の短くない判断力の成せる業。陸道家次期当主の器を感じさせるものであった。
そんな鏡が懐から取り出したのは市販のタバコだ。
学園にいる時や生徒の前などでは吸わないが、退魔師としての仕事中に軽く吹かす程度には嗜んでいる。
口に咥え、ライターの火を起こそうとした辺りで、ふと気付く。
自身の生徒ではないために気を抜いていたが、海北綱も佐助花真朱も学園生なのだ。
鏡はばつが悪い表情でタバコを仕舞い、何故かニヤニヤと鏡を見ていた鉄火と目が合う。二人は初対面であり、そんな獲物の調理法を考えるような視線を送られる理由が、鏡には思い当たらなかった。
「………何だ?」
「いやなに、タバコって良いなーと思っただけだ」
鏡は僅かな時間、思考を巡らす。そして徐にタバコの箱から一本だけ顔を出させ、それを鉄火に差し出した。
「生徒の近くでは止めとけよ?」
「うん? いやいや、違えよ。タバコを咥えた男が良いって話だ。今度、二郎の奴に咥えさせるかってな」
「「アウトです!!」」
海北と真朱から同時に突っ込みを受けた。
真朱は風紀委員として、この女は二郎に悪影響を及ぼすのではないかと、真剣に考え始める。再三、鉄火は風紀委員会で取り締まるべきだと言っていた二郎の言い分を、ただのイチャツキだと切って捨てるべきではなかったのでは、と。
「“百鬼大蛇”の壊滅後、松平二郎の式鬼神となった“鬼”……“鈴の音”の鉄火。なるほど、この気性なら納得だ」
「「「鈴の音?」」」
鏡以外、本人を含めて通り名らしきそれに疑問符が浮かぶ。
鉄火はどう控えめに言っても“鈴の音”という呼び名に相応しくない。鈴の音と言えば、もっと涼やかで落ち着きのあるイメージだ。とてもではないが、一度外に出た鉄火の落ち着きの無さは鈴などと言う可愛らしい物とは無縁に思えた。
「知らないのか。お前は猫の首に付けられた鈴だ。事実、“龍首”の下にお前が付くまで、退魔師協会の奴への警戒レベルは現在の比ではなかった」
「大将がか? ぶっ、あの大将をどんな色眼鏡を使えば危険に見れるんだ? ぷはははっ、笑えるぜ!」
鉄火が一笑に伏すのも仕方がない。鉄火の知る“龍首”こと咒水虎子は、どう見ても無害な猫耳メイドでしかないのだから。
確かに、戦闘ともなれば強さは絶大。過去には退魔師との衝突もあり、警戒されるのも当然だ。
しかし、鏡の言葉からは強い畏れのようなものを感じる。冗談や、誇張した言い回しではないと分かる重さがあった。
「俺も伝え聞いた話でしかないが、“龍首”の持つ固有秘術……“龍神神楽”は、現存する固有秘術の中では最強の能力だと言われている」
「え!? そんなに……」
凄い力なんですか……真朱が咄嗟に声を発し、言葉に詰まる。何故なら“龍首”と言えば、以前に黒沼公浩が交戦し、撃退したと記録にはあったからだ。
それほどに強い能力なら、例え公浩と言えど無事に帰ってこれるとは思えない。
鏡の言葉に含まれた緊張を感じて、隣で海北が息を呑む音も聞こえた。
「詳細は不明だが、これは生け贄を用いる事で強大な力を持った式神を作り出し、使役する能力らしい。協会の史料によると、かつて一度だけ、その式神の討伐が行われている」
声の重みが増した。
続いて発せられる鏡の言葉に、否応なく集中が高められる。そして、
「討伐に参加した全員が特一級相当。退魔師、祓魔師、聖堂騎士、合わせて百数十名が命を落とした。何より驚くべきは、その先頭に立っていた仁科黎明が瀕死の重症を負って、何とか討伐を成し得たという事実だろう」
世界最強を謳われる退魔師の名を知らぬ者はいない。
軽い雑談だと思っていた話が、まさかここまでホラーな様相を呈するなど誰も想像していなかった。海北など、薄らと鳥肌が立っている程だ。
しかし元を辿れば、鉄火の通り名について話していた筈。あまりにも次元の違う話に耐えられなくなった海北は、ここぞとばかり話を元の路線に戻しに掛かる。
「あー……えっとそれでー、鉄火さんの通り名が“鈴の音”というのは」
「……“龍神神楽”の生け贄には条件がある。術者の心に最も深く根付く、大切な誰か……家族や友人、恋人などが必要という事だ。悲しい力だが、万が一にも使われたら困る」
あれ、無視された?
海北が複雑な心境でいるのを尻目に、真朱と鉄火の二人は話の結論を察する。
真朱は居心地悪そうに顔を伏せ、鉄火はそれこそ涼やかな顔で堂々たる立ち姿をしていた。
「なるほどな。あたいが次の生け贄になるって、協会は踏んでるわけだ」
「えっ!? そんな――――」
「騒ぐなよツナ。あたいが鈴の音って事は、あれだろ。協会は大将があたいを生け贄にする事はまずないって判断したんだろ?」
「……ああ。分析官は総じて、“龍首”がお前を犠牲にする事はないと結論を出した。それだけ情が移っているとな。“鈴の音”というのは、猫にとっての足枷という意味で付けられた名だ。ついでに、お前が側で騒がしくしていれば“龍首”を見失う事もない」
「ふん、あの大将だからな。一番大切な誰かを失うくらいなら、その場で死ぬだろ。ま、もちろん、それはあたいが一番でなくてもそうしてるだろうさ」
気持ちの良い笑顔が暗い個室を明るくする。
鏡はその笑顔に確かな説得力を感じ、ふっと笑みが浮かぶ。鉄火の評する“龍首”の人柄を、何故か信じても良いと思えたからであった。
「ふ、そうかもな………ところで話は変わるが、最近の“龍首”はやたらと羽振りが良いようだ。何か知っているか?」
虎子が秋葉原のメイド喫茶、『りゅうのあにゃ』のオーナーであることは知られている。最近、その店舗拡大のペースが不自然に早いのだと、陸道の耳に入ったのだ。
『りゅうのあにゃ』は一見普通のメイド喫茶。しかし裏では違法薬物、密輸、人身売買など非道な活動を牛耳る悪の巣窟………などと言う事は欠片も無い、本当にただの最大手チェーン店である。
そんな善良そのものなメイド喫茶で一点突破の一途な経営戦略では考え難い金の流れ……五行家でも追跡しきれない大金の出所が少し気にはなっていた。調べた所によると中小企業がバックに付いたとあるが、規模から考えて、まさかそれだけが理由とは――――
「あー、『真ノ悪』だろ。大将も店に命賭けてるからって、何も魂まで売らなくても――――」
「待て! 『真ノ悪』と言ったか!?」
鏡は焦った様子で鉄火の言葉を遮る。続けて海北、真朱へと目を向けた。
海北はピンと来ていないのか反応は薄く、真朱は表情に若干の強張りが浮かんだ。
『真ノ悪』に対する理解度の差が二人の間にはあった。ついでに鉄火も、その名前が意味する事の重大さの認識が甘い。
子供扱いするつもりはないが、本来、学生の前で憚らず口にできる名前ではないのだ。
「鉄火。その話を詳しく――――」
コンコン
鏡の詰め寄らんばかりの勢いを削ぐ形で、部屋の戸を叩く音が響いた。
全員の視線が一瞬の静寂の中を一点に向けて走る。
「カガミ、私もその話には興味がある。混ぜてもらえるかな」
現れたのは白シャツにジャケット、紺のパンツ、縁の細い眼鏡を掛けた優男……三王山 阿斗州。スーツ姿の鏡とは対象的に、いかにもプライベートな出で立ちだ。
「アトス……済まんな、貸し切りにしたのに騒がせて」
「正直、折角いい雰囲気だったのにとは思うけどね。こちらの方が重要そうだ」
苦笑いを湛えた阿斗州が話の輪へと歩み寄る。
鉄火と顔を合わせ、しかしすぐに何かを言わず、椅子に縛られている真朱の側にしゃがんだ。
「風紀委員の佐助花真朱さん、事情は知っています。“三つの異能”の秘匿に関して亜笠から相談を受けましたので」
「では、今の私の状況も………」
「ええ。私はこんな時のための、いわば保険でしょうか。安心してください、貴女の素性を知っているのは最小限の人間だけです」
阿斗州が言い終わる頃には、真朱を拘束していたロープはハラリと床に落ちていた。
それを何とも微妙そうに流し見ている鏡へ「亜笠を待つ必要はない。私が保証するよ」と言ってのける。親友とも呼べる間柄としては、これ以上あれこれと言えなくなった。
「ってか誰なんだ、こいつ」
「ちょ―――!? 鉄火さん、この人は……(ごにょごにょ)」
「ふんふん……あー、亜笠の兄弟なのか。全然似てねーな」
「とにかく偉い人です。僕らは隅っこで適当に頷いて、結論が出るのを待ちましょう」
「……悪い意味で保守的だな、ツナ」
“六家”の次期当主が二人……ごく普通の学生退魔師の海北としては、この上なく息が詰まる空間だ。鏡一人でも萎縮気味だったというのに、こうなってはもうステルス以外の道は無い。
……尤も、状況はそれを良しとしなかったが。
「君は海北綱、だったかな」
「あ、はい! え、でも、なんで名前………」
「私の婚約者が、よく生徒会の話をしてくれてね。彼女曰く、君は官僚向きだそうだ」
三王山家の跡取り、その婚約者………
自分の知り合いで、生徒会の事情にも通じており、客観的な評価を下せる女性。海北の身近で思い当たる人間は………あれ? いないぞ。
「それから、君に女性ものの服を着せて踏みつけにしたいとも言ってたかな」
「言ってません!!? 似合うかもとは言いましたけど、それだけで――――あ」
阿斗州の言葉が海北の背筋を凍りつかせる寸前、入り口の脇からバッと姿を現したチャイナドレスの女性。サイドアップにした長い髪の先が勢いでフワッと上がり、次いでゆっくりと肩から垂れる。
しまった……という顔には、海北も真朱も見覚えがあった。
「副会長………」
「副会長さん………」
前生徒会副会長、天ノ川 鳳子。
真朱は委員会の仕事で何度か顔を合わせる程度だったが、海北はより高い頻度で仕事をした仲である。
ただ卒業後に再会したならまだしも、場所とタイミングを思えば気まずいの一言。
海北と真朱の視線が婚約者を名乗った男へ、ゆらりと動いた。
「鳳子くんは、私の婚約者だと恥ずかしいかい?」
「そういうわけじゃ……でもこの格好は恥ずかしい、です」
「とても良く似合ってるよ。ですよね?」
さらっと同意を求められた海北はビクッと体を震わせる。
権力者を過度に恐れてはいないが、苦手意識は強い。故に飛び出した言葉は反射で、海北の偽らざる本音だった。
「す、すごく御綺麗だと思います!」
「う、うん……ありがとう海北君。でも私の趣味じゃないからね!? 亜笠さんから強引に進められて………うぅ、他の人には言わないでね?」
鳳子に婚約者がいた事も驚きだが、その相手が三王山家の長子という事実には複雑なものが見てとれる。
なぜなら海北の知る天ノ川鳳子という人物は、前生徒会長の三王山梓とは親友で、恋愛のレの字を聞いただけで敬遠するほど奥手で、あらあらウフフ、なのだから。
(男の人と付き合うなんて、副会長の精神が持つのかな………)
こと色恋に関しては生徒会一の繊細さを持ち合わせていた、歩くガラス細工だ。
海北が心配する筋合いではないのだが、つい考えずにはいられなかった。
「それでは、話を戻しましょうか。鉄火さん、“真ノ悪”が、“龍首”と通じているのですか?」
真剣な面持ちに変わった阿斗州による問い。
退屈になっていたらしき鉄火が、部屋の端に置かれたテーブルの上にぐでーっとしている姿とは対象的だ。ちょっとばかし声に重みを持たせたところで、認識の格差は埋まっていない。
「さあな、どの程度の関係があるかは知らねーよ。ただ………」
協会が“百鬼大蛇”を壊滅させてすぐ、虎子が何者かと繋がりを持った。リターンの大きい契約で、相手もそれなりに信用できると見ており、実際に問題も無く関係を続けている。
加えて最近などは、より深く突っ込んだ話になっているのだとか。流石に退魔師の式鬼神となった鉄火は同席させてもらえず、また興味も無かったため聞こうとしなかった。
たまに虎子の家へ茶菓子を貪りに行っている鉄火が、聞き流しつつ入っていた僅かな情報を纏めると、そんな感じである。
「不思議なのが大将の態度だ。あたいの知る限り、それまで“真ノ悪”なんて連中とツルんでる感じじゃなかった。ある日突然に現れて、信用したって感じか」
「組織が潰された直後で、慌てて救いの手を掴んだんじゃないのか? でなければ操られていたか」
「どっちもねぇな。操られてりゃあたいが気づくし、組織にだって特に執着してなかった。そもそも“百鬼大蛇”なんて、“白面金毛”に備えた盾みてーなもんだ。そんなものよりメイド喫茶の方がよほど大事にしてたぜ?」
「……聞けば聞くほど知らぬ情報ばかりだな。お前が松平二郎の式鬼神になる前に、“社”で聞き取りが行われた筈だが?」
「知ってることは洗い浚いゲロしたっての。“真ノ悪”が大将ん家に出入りしてるって知ったのはその後だ」
「なぜ報告を――――」
そこまで言って、鉄火という女の立ち位置を思い出す。
退魔師の式鬼神は、厳密には協会の所属ではない。契約を交わした退魔師に管理責任はあるが、その行動や思想までをも縛る事は出来ないのだと。
こちらから能動的に情報を引き出そうとしなければ、式鬼神に報告の義務やら責任なんてものは生じない。
ましてや、契約主も学生という身分では多くを期待するわけにもいかないだろう。
「カガミ、認識が甘いのは彼女たちだけではなかった。我々も彼女の存在をもっと重視するべきだったんだよ」
「ああ、抜かった。もっと早くに知れていれば、“真ノ悪”の尻尾を掴めたかもしれないが………」
「ってか、お前らも会ってくりゃいいじゃん。最近もちょくちょくマンションに来るらしいし」
「「……………」」
何とも言えない視線が鉄火に集まる。
随分と簡単に言ってくれるもんだ。“真ノ悪”の構成員がいるかもしれない場所だぞ? コンビニへ寄るのとはわけが違う……そんな視線。
早い段階から入念な準備をし、意表を突く形で張り込みや追跡を何ヵ月と行い、安全を確認してからようやく相手の懐へ飛び込める。
そこまでしても尚、恐ろしい相手………ではあるが
「今さら虫の一匹や二匹、彷徨いたところで気にも留めないかな?」
「ちょうど良い具合に先日、一応の休戦も成立している。“龍首”の動向監視の名目で突っついてみるのも面白いかもな」
目線で語り合う男二人。不良グループに殴り込みにでも行くような気配を自然体で発している。そんな息の合わせ様は、傍らで真剣な顔をした阿斗州を眺めていた鳳子が嫉妬を覚える程。
長年連れ添った夫婦でさえもここまで通じ合ってはいないだろう。
「むぅ………」
「……お? なんだよ鳳子、いっちょまえに膨れっ面かあ? 何だかんだ言ってても、男に興味のある年頃だねー」
鉄火が揶揄う口調で肘を当てる。
これが生徒会時代で、しかも相手が凛子であったなら、赤面した鳳子に照れ隠しという名の鉄拳制裁を受けていたに違いない。
という事で鉄火は、通力の込もったデコピンで「ふぎゃん!」されるだけで済んだ。
(“真ノ悪”、橘花院士緒………今どうしてるんだろう)
真朱は遠い目をして、いつかの事を思い出す。
銀箭羽々矢に殺される所を助けてくれた。その時の優しい顔が頭に浮かぶ度、胸がズキンと痛む。自分は公浩を好きなのに、この葛藤にも似た感情を覚えてしまうのは………
(浮気なんかじゃない。絶対に、浮気なんかじゃない!)
真朱はこの後しばらく、真面目さに比例した自己嫌悪に苛まれる事になった。
★
先日まで梢が仮住まいにしていたマンションの部屋。
元々少なかった家具が引き払われ、只々がらんどうの箱となっている。
そして、家具の代わりに在るのはリビングスペースの壁に背を預けて佇む少女。ベランダから差し込む薄い月明かりだけが、その存在を証明していた。
「静かな夜ですね、斑鳩縁さん。月はイマイチですが」
「そうか? 私に言わせれば、『月が綺麗』の一言だがな」
壁を挟んだ隣の部屋から声を発するのは橘花院士緒。引き戸がある筈の場所は吹き抜けで、厳密に二人を遮る物は無い。物理的な隔たりは二人が背中を預けている壁一つ。
しかし、その一線はかなり分厚い隔たりと感じずにはいられない。縁が唯一つ要求した「会って話がしたい」という願いは、半分しか叶っていないのだから。
「この時のために街の掃除までした私に対して、些か扱いが不等ではないか?」
「以前、貴女に気を許したら事故が起こりましたからね。そう簡単に面と向かって話せると思わないでください」
梢たちが陰でファーストキス事件(略して○ぁっく事件)と呼んでいるソレ。縁による一種の暴行事件が、壁の正体だった。
男なら無条件で喜ぶような事態でも、無垢な貞操とピュアな恋愛観を合わせ持つ青年には複雑な黒歴史となったのだ。
そのせいもあって、どこか苦手意識に近いものが芽生えていた。
「ははは、あれは中々に刺激的だったな………ははーん、さては照れているな貴様。恥ずかしくてお姉さんの顔が見れないのか、可愛いやつめ」
「……この際ですから言っておきましょう。私は貞淑な女性を好ましく思っています。貴女ではなさそうですね」
「つまり私が貞淑になれば、好きになってくれるわけか?」
「……そうは言いませんが」
この女なら、明日には本当に貞淑さを身に付けているかもしれない……そんな怖さがある。
苦手意識がそうさせるのか、普段なら切って捨てるような返しが出来ない。思考にいつものキレが生まれなかった。
「自分と付き合いたければ、自分好みになって出直せと来たか。とんだ俺様彼氏だな、嫌いではないぞ。健気な私はいくらでもお前色に染まってやるとも」
「………こんな下らない話をするために、手間をかけてまで呼び出したのですか?」
士緒の苛立ちが声音に乗って縁へと届く。
雑談とはいえ、縁に会話のペースを握られそうになった事が気に入らなかったのだ。無理矢理に軌道修正をしたと分かる態度は、いっそう縁を楽しませていた。
「橘花院よ、貴様はこの世界をどう思う?」
「…………」
「救う価値があると思うか?」
「………………」
縁の質問は、士緒の身にスルスルと浸透していく。
どこまで意図を持っているかは知らないが、その質問は確実に士緒が設けた壁に一撃を入れるものだった。
「確か貴様らは世界を救うとか宣っていたな。ふっ、“白面金毛”も同じ事を言っているぞ。英雄を気取るパラノイア共は、どいつもこいつも己の世界を救うのに必死だ。傲慢極まる………が、まぁ必ずしも悪ではない」
「傲慢さのツケは誰しもが支払います。“真ノ悪”とて例外ではない。世界を救うのも、身勝手な手段と結果を押し付けるのですから……悪と呼んで差し支えないでしょう」
「ふふ、良い事を教えてやろう」
縁の妖艶な含み笑いが、壁越しにも関わらず士緒の耳朶を舐める。
この斑鳩縁という女は、どこまで知っているのだろう。『裏返り』の正体、“白面金毛”との繋がり、そして“真ノ悪”の目的と手段など。
それらを気にし始めると、士緒が普段から貼り付けている不敵な笑みも鳴りを潜めるばかりだ。どういう訳か、今のところ情報面では縁が有利だった。
「世界の真実だ。人の世において多数派の利益を正義、少数派の自由を悪と呼ぶのだよ。人間が固執するのは、正しさという名の悪意っ!」
縁の言葉に熱が込められる。
舞台上で演技に酔いしれる役者さながらの声の張り。士緒の背中越しで虚空に手を翳し、月の光に身を浸らせる姿が容易に思い浮かぶ。
その姿は忌々しい事に、士緒が最も嫌う女狐とよく似ていた。
「身勝手な概念だ。人から奪い、人を貶め、人を傷つける……それを悪と断ずるのは、多数派の都合でしかない。理不尽を悪と言うが、多数の正義が寄って集って少数の悪を虐げることは理不尽ではないのか?」
「悪事を正当化する議論に興じるつもりはありません。壁越しでも、もう少しロマンチックな会話が出来ると期待していたのですが」
これ見よがしに落胆のため息を吐いて見せる。
いつ帰ってもおかしくない雰囲気を言外に伝え、多少なりとも自分のペースに巻き込もうとした。それが効いたのか、そうでないのか……縁は唐突な行動に出た。
音も無く、目にも留まらぬ速さで士緒の居る部屋に立ち入り、詰めよったのだ。ギラギラと輝く瞳と肉食獣の笑みを湛えて。
「私が貴様を正義にしてやる! 力の限りを持って、貴様のために正しさを手に入れて来てやる!」
「いいえ結構、余計なお世話です。それと近いです」
少し目線を下げれば縁の整った鼻先が間近にある。
自分が壁に追い詰められ、熱烈に迫られているような体勢だ。いやきっと、ようなではないのだろう。
「正義だの悪だの、そんな概念はいくらでもひっくり返せる。貴様は執拗に自らを悪へと落とし込もうとするが、それは正義への憧れを裏返したものだ。初めて会った時も人一倍、承認欲求が強い目をしていたろ?」
「っ…………」
乱れた吐息、頬は薄明かりでも赤みが視認できる程に上気している。真っ直ぐに押し寄せる狂おしい視線に堪えられず、士緒は乱暴な動きで縁との立ち位置を入れ替え、壁に押し付けた。
「いいですね、だいぶロマンチックになってきましたよ。男は憎たらしい女の首に手を掛け、愛憎入り混じる衝動に身を任せる」
「女は、ここでは嫌だと男の手を逃れる」
スルリと士緒の手を抜け、情熱的なダンスのステップで元居た部屋に踊り出る。
追い掛けた士緒は、縁が衣服を素早く床に投げ捨てる瞬間を見た。
「なぜ私が貴様に惚れたか、分かるか? 知りたくなったからだ……貴様が悪を成すのか、正義に堕ちるのかをな。どちらの貴様も愛してやる」
上下の黒い下着を残して衣服を脱ぎ去った縁。
そのまま士緒へとしなだれ掛かった。
「私を使って良いんだぞ? お前が望む物を差し出そう」
耳元での甘い囁き声は、脳と言わず全身が蕩けそうな毒を持っている。これを普通の人間にしようものならその場で果てるか、良くても獣と化す。悪くすれば一生を愛の奴隷で過ごしかねない。
当然だが、その声には通力が通っていた。催眠、暗示の類いだが、これは操ると言うよりも媚薬に近い。
本心を引き出し、その行いを赦す……効かないと分かっていて、敢えてそれを示したのだ。
そして更に身体を密着させ、脚を腕を絡めていく。
この光景を見れば、誰も斑鳩縁という女の魔性を疑わないだろう………本人を除いて。
(さあ来い! 何でも来い! ちょっとくらい痛くても良いから!)
縁は手応えを感じていた。
あれこれ難しい事を言って余裕を見せていたが、内心ではドキドキしっぱなしである。
ここまでを一種の交渉――駆け引きの意味――として言葉を紡ぎ、ここからはもっと直接的な交渉――大人の意味合い――に切り替えるつもりだった。
それに、縁は切り札を切った後だ。
堅物の朴念人でも逆らえないだろう切り札。どうだ襲え! と初な体を必死に動かしたのだが………
「有り難うございます。震えている貴女を見て、目が覚めました」
どんなに余裕ぶっていても抑えきれない震え。
実は、少し乱暴な立ち回りになった時から微かな震えが起きていた。不安と恐さが半分、魚が食い付いた喜びと緊張が半分。その状態でしなだれ掛かったのが失敗だった。
薄暗い部屋なら気付かれないと考えていた縁の、最後の失策だ。
「私はノーと言える日本人、据え膳にも手を付けない日本人です。楽しい一時でしたよ、斑鳩縁さん」
「待て――――!?」
次の瞬間、縁は何処とも知れない林の中に居た。
下着姿で、辺りを見回そうとした所に衣服を頭の上に落とされて。
「ポイされたか………」
勇気を振り絞って大胆な行動に出たのに、これ程に相手にされないとは屈辱も良いところ。
縁は唇を結び、頭に適当に乗っている衣服を掴んで叫ぶ。
「もういいっ、よく分かった! そうやって私を焦らして楽しめば良いさ! お前好みの女になって出直してやるとも! 土産を楽しみにしているんだなバァアアアカ!!」
人気の無い林の中を、虚しく反響する罵声。
自分をポイしたのが転移の顕術である点はまるで眼中に無い、乙女の叫びだった。
★
一方、マンションの一室。
士緒はスーツのポケットに入れられた無色透明の勾玉を見つめていた。
縁が密着した時に然り気無く入れた代物。続いて、甘美な囁きの中に織り込まれた誘惑以外の言葉は、その勾玉が何であるかというものだった。
「最後に素敵な物を頂きました。そう考えると、少し悪い事をしましたかね?」
正直、色々と危うかった。
思い返すと、こんなにも気持ちに余裕の無い自分は多くない。
鶫が決闘紛いの告白をしてきた時と似ているかもしれない。
「…………」
ある意味、今回はよりタチが悪い。
士緒は床に座り込み、熱を持った頬と口元を手で隠しながら、落ち着くのを待った。




