第105話 サンシィ
そこは数十分前まで仁科邸だった場所。
外観などはもはや邸宅の面影も無く、美しく整えられた庭は鍬で地面をひっくり返したかのように茶色一色となっている。
さらに持ち主が感じるであろう事態の深刻さで言えば外も中も大差ないが、凄惨な方はどちらかと問われれば……間違いなく中だ。
外側では邸宅そのものが百数十メートルを超す巨大な泥人形に姿を変え、今や上空にピタリと磔にされているだけで終わった。尤も、中にいる人間からすればそんなもの、と鼻で笑う程度でしかない。自分たちの居る場所こそが地獄なのだ、と。
外では派手に戦闘を繰り広げ、様々な衝撃が仁科邸を襲うも、内部へのダメージは殆ど無かった。
それと言うのも、仁科千豊が屋敷を要塞化した際、防衛に役立つ多くの術式を詰め込み過ぎた結果、千豊の死と同時に管理を離れ暴走。そのせいで邸内と外ではその存在そのものにズレが生じている。外でどれだけ汚泥の巨人が転倒しようが粉砕しようが、内部への物理的な影響は無いのだ。
屋敷の内装はその凄惨さを思えば、不気味な程に整ったまま。小さな物音すら殆ど無く、静寂が場を支配していた。
いや……本当の意味でその空間を支配するモノに怯えて、彼らは静寂の裏に隠れているとでも言うべきか。
仁科亮に脅迫をされ、屋敷の使用人として散々な扱いを受けてきた退魔師の男。そして、仁科邸に潜入して諜報の真似事を行っていた少年……九良名学園第三校生徒会、工藤正臣。
二人は煩く鳴る心臓を必死に押さえ付けながら、広い通路の隅で息を殺す。陶器が置かれた台座の横に一ミリでも多く身体を隠して、ソレをやり過ごすために。
「ふーっ………ふぅーっ………!」
緊張で呼吸が乱れている男の口を、工藤は少しでも音が漏れないよう手で塞ぐ。
二人の視線の先にいるのは屋敷の防衛機構の一つ……今やこの邸内において最悪の存在だ。
大きさは平均的な人間のそれと同じくらい。くすんだ白い体躯に手足は無く、シーツを被った垂直の棒がズルズルと横滑りしている様に見える。
それも厄介な事に、緩やかな円を描く軌道で通路を広々と使っていたかと思えば、唐突に速度を増して鋭く直角に移動したりと、息を殺している人間の心臓には極めて有害な動きを取るのだ。
そんな、思考もしなければ行動に規則性も見出だせない物体に、邸内に居た多くの使用人が殺された。
屋敷中の術式が暴走したのか、致死性の高い罠の他、目の前の掃除屋と同類の存在があちこちで働いたらしい。工藤と使用人の男が外への出口を探して走り回っている時に、男女問わず様々な惨たらしい殺され方をした死体がいくつも散乱していた。
工藤が潜入してから調査できた仁科邸の情報には、これら防衛装置の事も含まれる。
現在、工藤たちが何としても避けようとしているそれは、緊急時に起動し、動き出したら敵味方の区別もつけられないタイプのものだ。だからこそ余計に恐ろしいのが、その殺傷能力だけを見れば災害級に匹敵するという事だろう。
邸内の術式を一手に管理している中枢に問題があったのか、防衛機構が十全に力を発揮できていない事は不幸中の幸いだった。
あのノッペリした白い棒にいたっては、音さえ立てなければこちらを認識しないことに工藤が気付き、数度に渡り出し抜いていた。
それら機構に生じている欠陥を見抜くことで、時には切り抜け、時にはやり過ごすことに成功している。隣の男もずっと行動を共にしていたのだから、そろそろ慣れてほしいものだが。
「……………行ったか。もう息をしていいぞ」
男の口を覆っていた工藤の手が離れ、存分に酸素を取り込む音が場に満ちる。次いで呼吸が収まってくると、元は退魔師とは思えないほど弱々しい……嗚咽やら鼻水やらを垂らして泣き出してしまった。
「なんでだよぉ……なんで俺がこんな目にっ……ぅぅ」
「いつも言ってたろ………死にたくないからだ」
工藤の言葉に、体育座りで顔を埋めていた男がはっと目を見開く。
数日前に屋敷で顔を合わせた二人。工藤は男よりも年下なのは明らかだったが、仁科邸での強制労働で愚痴やら泣き言を言うたびに励ましてもらっていた。
行動を共にする時間も増え、相方のように頼りにもしてきた。
仁科亮の『呪』によって命を握られた自分は工藤に、何度、死にたくないと溢しただろうか。
ここでの生活も、死にたくない一心で堪えてきたのだ。生きていたいのなら……このくらいの恐怖に直面することは、むしろ当然と納得すべきである。
男は涙と鼻水を拭い、震える手足に鞭を入れながらも、立ち上がるだけの力を絞り出した。
「よし、術式はアンタの専門分野だ。その視点から、あの化物はあとどのくらい活動していられるか……もう一度俺に聞かせてくれ」
「あ、あぁ………あいつらは屋敷の中枢から通力の供給を受けてる。ここを管理するシステムに異常があったのなら、長くは持たないはずだ。長くても1日……運が良ければ数時間だろう」
「屋敷の術式構築に関わったアンタが言うんだ。信じるよ」
少しでも男を落ち着かせるために、希望の持てる推測を改めて自分の口から言わせる。人から励ましの言葉を掛けられるより、自分の言葉の方が説得力があるのだから。
「だが、アレが全部消えるって事は、基盤となる術式そのものが崩壊してるって事で………屋敷の詳細な造りは知らないが、ここで術式に組み込まれていない場所は殆ど無いはず。そうなると最悪の場合、崩壊に巻き込まれて建物や土地が消し飛ぶ、なんて事もありえる」
「悠長にもしてられないって事だな……なら出口を探そう。アンタの知る限りで、術式の設置が一番手薄なのはどこだ?」
「強いて言うなら西側、だろうな。使用人が使う離れに続いてて、出入りが多い。ここの術式は安全装置も程々だし、下手に致命的なものはばら撒いていない……と思う。そこまで行ければ、運良く手薄な箇所を見つけられれば、そこから脱出できる……恐らく」
何を言うにも希望的観測の域を出ない。
実の無い話ばかりで不本意だが、今はその恐らくに縋るしかないのも事実。
不幸にも二人がいるのは東側に程近い場所だ。身動き一つが命懸けになる状況で、西館までの移動はかなりの勇気がいる。
工藤は学生退魔師の中では頭一つ抜けている強さではあるが、その領分はあくまで研究畑だ。純粋な戦闘力は特一級に及ばない。
隣の男も工藤に同様で、前衛のサポートならともかく、今の面子で遭遇戦など論外であった。
「希望があるだけマシと考えるしかない。慎重に向かおう」
「ああ。知ってると思うが、ここの防衛装置は強い顕術による通力を嗅ぎとる。『穏形』も逆効果だから………」
「綱渡りだな……だが、やるしかない」
二人は可能な限り気配を消しながら移動を開始する。
一個人が所有する民家とは思えない尋常ならざる広さの廊下を、壁に貼り付くようにして進んでいく。部屋を抜けようと扉に手を掛け、微かな物音すらも許さない遅々とした動きは、まるでこそ泥にでもなった気分だ。
(学園を卒業したら一生論文だけ書いて、現場とは無縁で過ごすつもりだったってのに。おまけに、もうホラーやらサスペンススリラーやらの映画は見れないな……)
振り向いたら何かがいるとか、警戒していても突然に死角から現れるとか、想像するだけでも恐ろしい。
他愛の無い考えは気を緩めたのではなく、むしろ引き締めたつもりだった。
だからこそ、扉を開けて目の前に白い棒が直立していた時……二人は死を覚悟した。
「「っっ…………」」
直立したツルツルのフォルムが眼前をぬるりと滑る。
間近で見ると体表は水銀にも似た質感で、表情はもちろんの事、感情などが窺える何かは無い。唯一分かるのは開いた扉を注意深く観察している様子だけ。
いや、実際にはこちらを横目で見ながら弄んでいるのではないか?
そんな風に考えるだけで、音が聴こえるのではないか心配になるくらい心臓が騒がしくなる。いっそ止まってくれた方が安心な程に。
・・・?・・・、、、・・・・
本当に心臓の音が聴こえた訳でもなかろうが、心なしか相手の関心が工藤に向いたと感じる。
数秒、見つめ合いともつかない沈黙が流れ……その終わりが前触れもなく訪れた。
バクンッ
白塗りの化物が中程で折れ、折れ目から無数の青白い腕が飛び出した。
生者とはかけ離れた悍ましい殺意が数十本……壁をくり抜き天井や床を抉り、その過程に存在していた物を全て、部屋ごと消滅させた。クシャリ、という軽い音だけを残して。
「っ――――んっく」
天井が一部崩れ落ちた音で、工藤が唾を呑みこむ音は目立たずに済んだ。
この世の物ではない腕が真横を掠め、いっぱいに開かれた扉の延長線上にあった隣の部屋……それを握り潰す光景を見て、生きた心地がするはずもない。今や自分の心臓が握られている錯覚まである。
生命活動を止めていないのが不思議だった。
(……何だ? ………何を狙った?)
屋敷の防衛機構は、建物の損壊は可能な限り避けるよう設定されている。
そのため、限られた空間でも敵を殺せる柔軟な攻撃手段を持っているのだ。目の前のコレなら、腕が通路を曲がったり部屋の調度品を壊さずに中を埋め尽くしたりと、とにかく今のように派手な破壊は基本的に行わない。
そのルールは術式が暴走した現状も変わっておらず、ここまでの道中でそれを確認している。
防衛機構が余程の脅威と判断した何かが隣の部屋にあったのだろうか?
その答えはすぐさま、工藤と連れの男にとっての救いの手となって姿を現した。
「東館へ!」
投げ掛けられた声の主へと、腕の形をした殺意の奔流が向きを変えて迫る。その内の一つにでも捕まれば、特一級の退魔師でも容易く圧殺されるだろう。
捕まれた箇所が圧縮された肉玉になりかねない恐怖を潜り抜け、現れたのは九良名学園の制服……黒沼公浩だ。
「東館の突き当たりだっ、早く!」
強い言葉に工藤は身体を跳ね上げて足を動かす。死の恐怖で凍りついていた男の襟首を引っ掴み、そのまま乱暴に引き摺りながら公浩の指示を飲み下した。
工藤はもと来た通路を遡り、東館へと全力で駆ける。
通路を満たそうとしている腕の隙間を抜け、囮を務める公浩とすれ違い様に目が合った。
見ると、その背中には二本の長い筒が背負われている。工藤たちの健在を確認した公浩はその内一本を開けた。
出てきたのは銀色に塗られたポンプ式のショットガン……仁科千豊が収集していた高位の術装だ。
シャコッ――――ダンッッ!!
公浩は腕を吐き出している化物に目掛けて、それを発砲。散弾銃の名前の通り、術式の施された特別な銃弾が砕けて広がり、化物を小さな穴だらけにして見せる。
当然、この程度では防衛機構を根っこから破壊できない。暴走状態で効率の概念を失っているとは言え、通力の供給は続いているのだから間もなく再生してしまう。
しかし、たった今使用した術装の真価は銃本体ではなく弾丸。それは現状において起死回生の能力を有していた。
それ一発で家が建つ代物。発動済みの顕術の破壊に特化した弾丸だ。
非常に強力な術装ではあるが、どれだけ優れていようとも費用対効果が毛ほども見合っていない。所有しているのは金を湯水へと変える事を厭わない金持ちぐらい……あるいはそういった連中に雇われている退治屋か、伝手のある本物の実力者だけだろう。
そんな貴重な武器を使ってさえ、破壊された術式が自動で修復するまでの僅かな時間を稼ぐのが精一杯。
術式破壊に特化している分、修復に手こずる事を考えても、十秒かそこらが限界だ。
だが、それでも逃げるには充分。
青白い腕の何本かがノロノロと道を塞ぎ、撤退しようとする公浩に追い縋ってくるが、その程度なら打ち破るのに何ら支障はない。
障害となる細腕を『光剣』で斬り捨て、先行している工藤へと追い付いた。
「やあ工藤君。西館に出口は無いよ。籠城できる場所があるから、そこまで走ろうか」
「黒沼……どうしてお前がここに居る?」
頭では無いと分かっているのだが、幻術を使った罠の類ではと疑ってしまう。
必要に駆られた状況とは言え思わず従ってしまう押しの強さと不敵な性質は、紛れもなく工藤が知る黒沼公浩のもの。同時に、まだ完全に冷静ではない中で多少落ち着いて考えてみると、迂闊な行動だったかと走りながら凹んでもいるが。
「ちょっと複雑でね。そっちも大変だったって? 無茶な潜入で死にかけてるかもって、風音さんと磯野君が心配してたよ」
死にかけて……の部分を強調して言うあたり、嫌味な言動や皮肉っぽい笑みは相変わらずである。皮肉と言えば、工藤はそのおかげで公浩が本物だと確信を持てた事か。
「……安全な場所とやらはまだか? 話はそこで落ち着いてからにしよう」
工藤に首根っこを掴まれていた男も、安全な場所と聞いて活力を取り戻した。引き摺られていただけの足は自らの意思で動いている。
安心は出来ないまでも、希望に対しての笑みが浮かぶのは止められない。
そして公浩の案内に任せた先……目的の部屋で、二人は漸く息をつけた。
★
「ずいぶんと楽しそうだな、サンシィ」
飛来したトンファーの軌道を辿って黎明がその場へ到着した時には、この状態であった。
首筋に『光剣』を突き付けられている神崎風音と、風音の首に突き付けられた『光剣』を腕ごと九節棍で絡め取って阻止している久我山絢里。風音の日本刀を奪って背面の絢里へと向け、また風音からは奪った刀の代わりとして『光剣』を脇腹に添えられている“雷蹴脚”。そして、うつ伏せに倒れ後頭部を“雷蹴脚”に踏みつけにされている磯野。
それぞれが緊迫の表情で―――一名は顔を確認できないが―――薄らと額に汗を滲ませ、複雑な膠着状態を演じている。
どこかで少しでも均衡が崩れれば、誰かが大怪我をするだろう事は想像に難くない。
そのせいで四人―――主に三人―――は下手に動けない状態となり、互いに相手が集中を切らしてくれないかと様子を見ていたのだ。
そこに現れたのが、仁科黎明だった。
黎明は洋画などで銃を突き付け合う警察と悪者の図をふと思い出す。
画面の中では見応えがあったのに……一人は学生、一人は中華系コスプレ、一人はアイドル、最後の一人はピエロとくれば、複雑な心境にもなる。緊迫感があるのやら無いのやら………
「ちぃっ、黎明……今アンタの相手してる暇は無いのよ。あっち行きなさい」
右へ左へと忙しなく首を向ける“雷蹴脚”が、心底鬱陶しそうに応じた。
「つれないじゃないか。まぁ何にしても、お前のとこの女狐とは完全に決別だ。当然、お前を帰してやる義理もない。大人しく縄を打たれるなら悪いようにはしないぞ、サンシィ」
「サンシィって呼ぶなクソガキが!」
馴れ馴れしい呼び名に怒声を上げる“雷蹴脚”。
黎明と“白面金毛”が出会って以来の付き合いである。多少は親しみを込めるだけの愛着が、“雷蹴脚”ことサンシィとの間にはあった。
因みに、“雷蹴脚”だけでは味気無いと、微妙な名付けをしたのは黎明だ。サンシィと呼ぶのは黎明と“白面金毛”だけではあるが。
「三対一でも引けを取らなかったサンシィを流石と称えるべきか、実力者として知られる“雷蹴脚”をたった三人で追い詰めた学生たちを誉めるべきか迷うがその前に………クソガキって呼ぶな」
「ぶぁ――――ちょ、助けて理事ちょベブッ」
顔を上げようとした磯野を、無慈悲にも“雷蹴脚”の足裏が地面に埋める。
その拍子に風音と絢里の張り詰めた雰囲気が増した。このままではいつ誰の血が流れても不思議ではない。
「無事でなによりだ、神崎……磯野もな。身代わりで捕まった女は保護した。この場も俺がいれば問題無い。退がっていいぞ?」
「っ………お久しぶりです理事長。お言葉ですが――――っ、このお友達が私の刀を返して地面に腹這いにならない限り無理です」
「同じくだ。この状況が見えないのかっ……おいっ、何者か知らないが、味方ならお友達に暴れないよう言ってくれないか!」
「アンタたちこそっ、ちょっとぐらい猫被ってお淑やかにしたら!? 黒沼の奴でも誘惑してなさいよ!」
「「うるさいっっ!!」」
女三人寄れば……と言うが、その場にそぐわない空気の弛み具合だ。黎明はやれやれと肩を竦めて前に進み出る。
「仲良しかよ、お前らは」
そんな呆れの言葉を溢した直後。フワッと、柔らかい風がにらみ合いを続ける三人を押した。
「「「!!?」」」
気付いた時には、風音はバランスを崩して尻餅を突き、絢里は跳ね返るように手元に戻って来た九節棍が右腕と胴体を拘束し、“雷蹴脚”は地面に突いた片膝を上から黎明の足に押さえられて立ち上がることも出来なくなっている。
時間でも止めたのかと思う程の、尋常ならざる黎明の速業だった。
「俺とも仲良くしておくことだな、サンシィ。お前の悪事は数えきれないが、それでも殺したいほど憎いわけじゃない……だから殺させるな」
「くっ……こっちは子供の使いじゃないのよ! アンタに殺す勇気が無いなら、他の誰かにやらせたら?」
「玉藻は一線を越えた……越えすぎた。お前もそれに続くのなら容赦はしない。この街と同じ事を繰り返してみろ………アレが殺せない生き物だろうと、刺し違えてでも消滅させる」
黎明からチクチクと刺すような気迫が“雷蹴脚”へと浴びせられる。
真に迫り、芯に響く。本物の決意が放つ威圧感だ。
黎明の見下ろす視線は恐ろしくもあり、ただし優しくもあった。今でも少年のようなナリをしているが、本当に少年だった頃から知っている“雷蹴脚”の率直な心証としては……これまで見えなかった男らしさにビックリ、といった感じだ。
人間、百年も生きればこんな風に育つものなのか、と。
「俺の覚悟は伝えたぞ。ここで死ぬか、生き長らえるか……サンシィ、お前の覚悟も聞きたいね」
「………いいわ。アンタの気が変わって私を殺す気になるまでは、大人しく囚われる。けど、情報は何も話さないわよ?」
「……まぁ、妥協としてはそんな所か。情報を吐くまでアレコレしてもいいんだが……お前、あんま色気無いしなぁ」
「好都合よ。アンタに辱しめられるくらいなら死を選ぶわ」
話はついた。
蚊帳の外で呆然とやり取りを眺めていた風音と絢里は漸く状況に適応する。絢里は九節棍を解いて黎明と話を。風音は黎明に退かされてから空気か石ころと化していた磯野を回収に。
檸梨が異変に見舞われてから十二日余り。対症療法しか出来なかった状況が遂に動いたのだと、誰もが実感する日となった。
世界を穿つ災禍まで
あと2日
★
聖川輝真は檸梨の街に囚われた囚人だ。
聖川という姓を名乗るようになった切っ掛けは、最初の頃に檸梨市で世話になった普通の一家だった。街が異変に襲われるまでの数日、繰り返す時間の中で関わる事の多かった、極ありふれた家族……聖川家。
彼らが一点、変わっている所があるとすれば、仁科黎明の情報屋だったこと。仁科黎明は輝が齎す情報の真偽を確かめる手段としてまず、退魔師とは関係無い一般的な街の情報を多く抱えている聖川という男に、異変の前兆が無いかを尋ねたのだ。
何度となく時間を繰り返してきたが、その手順だけはどうしても省略できない。ギーネに引き合わされた仁科黎明との関係構築に必要なステップではあったが、それこそが彼の限界だったとも言える。
どれだけ言葉を尽くそうとも、彼に協力を求めれば初動で多くの時間を無駄にしてしまう。そして無駄にしたと気付くまで、彼は輝の言葉を本気で受け止めなかった。
どう足掻いても彼ら一家を救えない……“凶堕ち”を防ぐ事が出来ないと分かってから、輝真はせめてもの慰めに聖川の姓を引き継いだ。
せめて……親しくなった者たちと、一緒に歩んでいるつもりで。
しかし、そんなささやかな自己満足で心が安らいだのも、短い間だけだった。
誰に助けを求めても、『火坑』の出現と同時に“凶堕ち”となる彼ら……聖川家に限らず街の人間たちを救えない現状に、遂に輝という少女の心は壊れてしまったのだろう。
一時期などは、全てがどうでもよくなった。
全てを呪い、関係の無い人間に理不尽を働いていた時期などは、まだマシとも思えた。
時間を遡り、始まりの場所がギーネたちのいる神社でなければ……彼女たちが輝という少女を励まし、支えてくれなければ。自分は本当の意味で死ねるまで、空虚に死を待ち続けたかもしれない。
思い返してみても、それだけが只々恐ろしい。
ある時、もう一度だけ何かをしてみようと行動したのは、以前にギーネの口から聞いた人物のことを思い出したからだ。
それまでは助力の殆どを仁科黎明に求めてきたが、そういえばもう一人……ギーネから提示された選択肢がいなかったか、と。
退魔師協会の会長にして世界最高の退魔師という肩書きの大きさもあり、他の誰かに助けを求める選択肢が頭から抜け落ちていた。
『黎明以外で頼れる者じゃと? ぬぅ……そうさのぉ』
ギーネは暫く思考を巡らせ、どことなく苦い顔で一人の人物に思い至る。
浮かぶ名前はいくらでもあった筈なのに、何故かギーネの思考にかなりの頻度で登場するのがその男だという事実に戸惑っている顔だ。
『黒沼公浩という男がおる。基本的にドSじゃ』
出だしから不安になるような、簡潔極まる人物像。
それこそが、輝の進む道に存在する最大の分岐点であると、知る由もなかった。
かつて女騎士は言った。
「くっ、殺せ!」 と。
異世界にて、プライドやら気位やらが高い女性に言わせてみたい台詞ベスト3に入ること間違いなし!
因みにサンシーとはフランスの有名なダイヤモンドの事です。
没にしましたが、サブタイトルを『ダイヤモンドと打ち解けない』にしかけた事を謝罪します。
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