第102話 泥の街 十二日目-3
檸梨市、とあるマンションの一室。
所有者が“凶堕ち”という現象で怪物と化したため、聖川輝真が一時的な宿として使用させてもらっている部屋だ。
そこのベランダで憂いの表情を浮かべている白髪の少女は絵になるが、憂いている本人にとっては深刻な難題でしかない。
「ギーネさん……やっぱり士緒のこと好きだったんだろうなー」
聖川輝真がベランダから見える街の景色に、溜め息にも似た独り言をぼそりと溢す。それでも、汚泥の空やパニック映画さながらの狂える元人間たちという酷い光景からすれば、大した悩みではないのかも知れないが。
“三つの異能”なんて訳の分からないモノのせいで、100年近くの昔から飛ばされた自分がこの街の異変に囚われて随分と経った。結果はどうあれ、今回が最後になるだろう。
思えば、自分も逞しくなったものだ。
こんな異常な世界にポンと放り込まれて今日まで、最初の頃は暇さえあれば一人で泣いていたというのに。
ただでさえ世間を知らない、イモ臭い田舎の小娘だった自分が。
田舎訛りも消えて標準語も完璧に話せるようになったし、現代的な生活にも慣れ、今では大抵の事はできるようにもなった。
元の時代では家族と呼べる者も居らず、奉公という名の人身売買の末、文字通りの身一つでここに飛ばされて来たのだ。
いつの頃からか……気が付いた時には元の時代に帰ろうとする気など綺麗さっぱり消え去っていたのは、ある意味で必然だったのだろう。
帰りたいと思う気持ちに限らず、色んなものを捨てて来たし、色んなものを得てもいる。
最初は安い正義感や同情、それから少し世話になったという理由から、よく知りもしない人間を助けるために檸梨市の消滅を防ごうと奔走してきた。“三つの異能”が意思に反して自動で発動してしまい、二周目以降は高山虎太郎とギーネの居る神社からスタートを繰り返す……まさに牢獄にして地獄のような日々の始まりだ。
どんな死に方であろうと死んだ瞬間に三週間前の鬼王神社に飛ばされ、やがて、それを繰り返すうちに地獄を終わらせる方法はこの街の異変を終息させる事だと知る。橘花院士緒や仁科黎明、主だって頼りにした者たちの殆どがそう結論付けたため、信じることにした。
そして8年近くを繰り返した経験から、最も信頼できると思えたのが橘花院士緒だったのだ。
周回の中には仁科黎明を頼る事もあったが、彼は大胆さはあっても精細さを欠き、おまけに連れている仲間たちとはイマイチ反りが合わない。説得から行動までの時間が掛かり過ぎたため、十数回目からは頼らなくなった。
他にも三王山、陸道、神崎紫瞬、珍しいところだと“吸血貴族”など。話し合いに脅しに誘導……操り操られの化かし合いを嫌と言う程にこなしてきたが、結局、どうしてもあの憎たらしい笑みの男にたどり着く。
異性へ向ける好意は当然のように芽生えた。とある理由からそれが叶わないとも知って枕を涙で濡らした事もある。
その気持ちには整理を付けた筈だったのに………前の周回で支払わざるを得なかった代償のせいで、気持ちが再燃するとは思わなかった。
先日は咄嗟に誤魔化してみたが……少し苦しかったかもしれない。
「バレてたよね………嘘ついたって。はぁ………BLで興奮しなくなったとか、信じるわけないし」
自分は、士緒を異性として好きになってはいけないのだ。
誰が聞いても、自分が士緒を好きになる事を気持ち悪いと言い、嫌悪するに違いない。
何故なら、橘花院士緒は――――
「玄孫が恋愛対象なんて………堪えるだなぁ」
その爆弾発言に合わせたわけではなかろうが、遠くの方で地鳴りが起きた直後、凄まじい轟音と衝撃の余波が輝真の居るベランダへと届く。
「オラの………これまでの頑張りを返して欲しいだよぉ」
檸梨市の一角に高層マンションを軽く越える大きさの、街を覆う汚泥とそっくり同じモノを固めて作られた巨人が、突如として出現していた。
怪獣映画やロボットアニメでしか見られないようなスケールの威容は、映画自体にそれほど馴染みの無かった頃の輝真なら、きっとショック死していたことだろう。
映画はこの時代に来てから何度か見ているし、アレが仁科邸の術式を壊した事で出現したモノだと知っている身としては、新鮮な驚きは皆無なのだが。
仁科邸へ赴く前に聞かされた士緒の話によると、ああいったモノが現れる可能性があるから注意していろとの事だった。正しくその通りの事が起きると知っている輝真からすれば、士緒の予測は自分のここでの存在価値を疑うほどに正確そのものだ。
しかし、続けて聞かされた話には腸が煮え繰り返った。
この檸梨市において、自分たちの最大の目的となるモノ。街を覆う結界の核となっている人物を………なんと、とうに見つけてあるとぬかしたのだ。
今回、それなりにあっさりと突き止められたということは……恐らく過去の周回でも発見はしていたのだろう。
それを聞いた時、思わず士緒の顔をぶん殴ってしまった。避けようとする気配も無く殴られた優男が、余計に憎たらしく見えたのは言うまでもない。
詳しく説明はされなかったが、聖川輝真という存在に一回でも多くの周回を経験させる必要があったとか何とか。
8年近く無駄な時間を使わせた言い訳がそれ?
ひたすらに怒って見せれば、済まなかったと素直に謝られた。
正直言って……自分も神崎風音の事を含め、これから起きる事実や持っている情報を敢えて伝えずにいる事で、局面を望む形に持っていこうとした負い目がある。これに関してはお互い様だったのだと、どうにか自分を納得させた………どうにか、辛うじて。
そうやって怒りを鎮めていなければ、今ごろは好きだ嫌いだなどと想い悩む事も無く、甘美で心地良い憎しみの感情に身を任せていたのかも知れない。
「嫌いになれたら、楽だったのに……………玄孫がいるって事は、戻れちゃうんだろうなぁ」
自分は恐らく、あの時代に戻るのだろう。
そして子供を産み、孫が生まれ、その息子か娘が士緒を産む。
こんな気持ちを持ったまま戻って、自分は幸せになれるのか?
いっそ、遠くに見える巨大怪獣が全てをぶち壊してくれたら………
憎い玄孫への恨み言は何とも虚しい願望となって、さらには何度目かの溜め息へと変わって吐き出された。
★
ゴゴ、ゴゴゴォ―――――
仁科黎明が起動した“神託”が仁科邸の敷地がすっぽりと収まる広範囲の空間を、幻想的に舞い散る光の粒子で満たした直後のことだ。
『レイ……この揺れは何だ?』
『知るかよ。メリザンドがヘマしたんじゃないのか?』
《Hey!? 聞こえてるヨ! 言い掛かりはヤメレー!》
メリザンド作、骨伝導スピーカーホン型“神託”……通称『もう骨伝導スピーカーホンでよくね?』から、本人による抗議が黎明とイグナシオの耳へと届けられる。
離れた場所で新型の“神託”に不備が無いか様子を窺っているメリザンドは、この歴史を変える大発明の成功を確信していた。
《見た感ジ、“神託”は正常に機能してるネー。そっちは大船に乗ったつもりで問題に対処するベシ!》
『……分かった。それでメリザンド、『結界柱』の調整は間に合ったのか?』
《oh……あんま無茶言うナー。街を覆ってる特大の結界より出力を上げろってカ? 工房にまる一日籠れば出来るケド、ここじゃムリー》
結界の顕術を異なる結界で破壊、あるいは阻害しようとした場合、使い手の技量や地力に大きな差が必要とされる。展開された結界内部で、その性質に反した結界を使おうとした場合でも、やはり大きな実力差が無ければ顕術として発動できないのだ。
それは退魔師が使う通力と、祓魔師が使う誓約の違いがあっても関係性は変わらない。それどころか、通力による結界と誓約による結界では、技量によって出力を自在に調節できる通力の方が有利と言えた。
工房に一日籠れば……というメリザンドの言葉は、軽く言ってはいるが破格の大仕事だろう。普通なら街を覆う大結界で、その性質とぶつかる効果の『結界柱』を作るなど、月単位の時間があったとしても困難を極めるのだから。
『ま、そうだな………無理言ってスマン。いったん切るぞ? 騒がしくなってきたんでな』
黎明が騒がしくと言った直前、地揺れは治まり静けさが一帯を支配していた。
『でかいな……レイ、気を抜くなよ?』
『見れば分かるよ』
静寂の中でいやに響く二人の声。
直後、轟音を伴って地面から現れた何かは、空へと昇る土の滝であった。
―――――ッゴォオオオオンッッッ!!!
広大な敷地の中央に座す宮殿の如き大豪邸……それが土台ごと凄まじい勢いで噴き上がる光景は、檸梨市の何処に居ても少なからず目にすることが出来ただろう。
土煙と泥の雨が広範囲に撒かれ、その巨大な事象の中心には、やはり巨大な何かの影があった。
直立不動の、あまりにも圧倒的な大きさのシルエット……街の空に見える汚泥を固めて作ったかのような巨人の影が。
VwoooOOOO――――――ッッッ!!!
それは汽笛にも似た、声とも振動ともつかない爆音。大気中を走り、それを聞いた多くの者に反射的に耳を塞がせた。
普段から訓練を行い、恐怖に耐性のある退魔師ですら、その威容に戦く程である。仁科邸から遠く離れた場所にある住民の避難所で、一般人が音を聞いただけで失神や錯乱を引き起こしているのも無理からぬ事だった。
その影響で“凶堕ち”の手前まで症状が加速してしまう人間が爆発的に出始め、収拾に追われる“社”は大わらわだ。
『ちぃっ……あれは“白面金毛”の尾の切れ端か。屋敷の維持に使っていた術式を、誰かが壊しやがったんだ。あの術式は暴走を起こすと、時々こうなる』
『“白面金毛”か………レイ、お前はいつも面倒事を持ち込んでくれるよ』
ゴゴォオ――――ドスンッッッ!!!
イグナシオが憎々しげに溢して睨み付ける先では緩慢ながらも、物理的に自らの重さを支えられる筈のない巨体が足を踏み出した所である。踏み込んだ先の地面はミサイルでも落ちたかのような惨状だ。土煙や家屋、木々やコンクリートが抵抗無く圧し潰され、足裏で踏み固められた物以外は衝撃で空へと舞い上がっていた。
『俺のせいか? 俺はあの女の保護者じゃねえけど』
『だが退魔師協会の長としては責任を負って貰おうか。さっさとアレを片付けろ。せっかくメリザンドの新作が機能しているのに、このままじゃ後2、3歩で活用の機会を失う』
巨人の上半身は“神託”による光の粒が舞う空間を突き抜け、全身も、その歩幅から見てすぐにでも範囲の外に出てしまいそうだ。
その空間はメリザンド謹製の『結界柱』に似ているが、本質は全く違う次世代型の“神託”……『命の樹』。黎明としては、出来れば『セフィロト』の中に留まりながらの方が都合が良い理由もある。
『住民の避難が済んでるのが救いか。ちょっとばかし手間取る大きさだが、サクサク片付けて――――ん?』
黎明は視界に、巨人の脚部を駆け上がる人影を捉えた。
白を基調とした九良名学園の制服、両手には木刀、屋台で見るようなヒーローのお面で顔を隠している少年。
“社”の報告の中で目にした、所属、正体ともに不明のイレギュラー……“規格外”で間違いない。
“規格外”が巨人の胸元まであっと言う間に到達すると、そこから『虚空踏破』に足を掛けて踏み込み、目にも留まらない超加速を行った。
次の瞬間、下段から振り上げた木刀が巨人の顎をバラバラに打ち砕き、怪獣並みの巨体が背中からゆっくりと倒れ込んだ。
ズシンッッッッ――――――!!
辺りには爆風と土煙が広がり、巨人が出現した時以上の揺れが街を駆け巡る。
“規格外”の攻撃はそれだけで終わらない。
“規格外”を排除しようと伸ばした手をするりと躱すと、ビルサイズの『飛閃の太刀』を胴体に向けて十字に放つ。巨体なだけに大きな損傷とはならなかったが、バツの傷跡をしかと刻み込んで見せた。
そこからは怒涛の勢いだ。倒れた汚泥の巨人の表面を高速で移動しながら、重い打撃から鋭い斬擊までを一方的に叩きこんでいく。
巨人の手足がジタバタと踠いているように見えるが、それは全て“規格外”の攻撃で地面に縫い付けられ、あるいは叩き落とされている有り様である。
時おり巨人の表面を迸る閃光やキラリと光る太刀筋は、黎明とイグナシオが思わず嘆息してしまう程に見応えがあった。
『なるほど……あれが“規格外”か。けっこう強いな』
『ああ、報告書で見るのとは受け取る印象がだいぶ違う。ここまでとは………』
『……イグナシオ、もう少し様子を見よう。見極めたい』
『そうか……高みの見物にしては、些か低い位置にいるがな』
黎明とイグナシオは“規格外”がどういった存在なのかを知るために、いよいよの場面まで戦いを見守る事にした。
★
〈聞こえるかい犬塚君……ああ、通じたみたいだね。僕は屋敷の暴走に巻き込まれて閉じ込められた。通信は出来るようになったけど、そっちの様子はどう?〉
屋敷の中からの通信が可能になってすぐ、“通信符”で公浩から戌孝へと飛んできた内容がこれだ。
その直後に仁科邸は消えて無くなり、入れ替わりに現れたのが怪獣映画さながらの超巨大な泥人形。戌孝としては、これ程に巨大な敵とは対峙した経験がない。正直、狼狽を覚えてしまっていた。
アレは敵なのか、どうすれば良い、自分は次に何をすべきなのか。
初めて相対する威容に呑まれ、思考停止に陥りかけたところで公浩からの通信が届き、辛うじて気を持ち直した形だ。
尊敬と信頼を寄せる相手からの声を聞き、“規格外”こと犬塚戌孝に気合いが入り直した。少し考えてみれば、神崎紫瞬が放っていたプレッシャーに比べたら見劣りすると気付けたのも大きいだろう。
そして百数十メートルにも及ぶ大怪獣の身体を駆け上がりながらも、戌孝の“固有秘術”と公浩の”通信符”による会話にて、外の状況を中へと伝えたところだ。
〈とりあえず……それほど巨大なら一撃による決着を図るのは、倒し切れなかった場合の反撃のリスクが大きい。ここは堅実に、ガリガリ削って消耗を狙ってみよう〉
何だかチュートリアルやナビキャラの解説でも受けているような気軽な調子に、戌孝の緊張もほどよく解れている。戌孝にとって公浩の声と言葉は、強い安心感を得られる精神的支柱となっていた。
それからは、戌孝が屋敷を出てから敷地内に広がったドーム状の光の中に押し留めるように攻撃を加えていく。
このキラキラした空間が何なのかは分からない。どうもうまく説明できないが、悪い気配を感じないのも確かだ。後で軽率と言われようとも、出来るだけこの光の中に留まっておきたい気持ちに戌孝は抗えなかった。
VooOooowwuu―――――!!!!
そして今、戌孝の絶え間無い猛攻に文字通り手も足も出ない汚泥の巨人。
たった一人による攻めでありながら、目で追うことも困難な速度で縦横無尽に疾走し、剣閃を飛び交わせ、凄まじいペースで体表を削っている。だと言うのに……
「黒沼先輩、もうかなり削ぎ落とした筈なのに、一向に減っている気がしません。それどころか、少しずつ大きくなっているような………」
〈ふむ……巨人の表面を見て。土とか金属の質感は無いかな?〉
言われて注意深く巨人に目をやると、先程までは無かった汚泥とは異なる質感が浮かび上がっていた。鎧を纏うように巨人の外皮を覆い始めた物の中に自転車や家の屋根、鉄にアスファルト等があれば、どういった現象が起きているのか察しも付くというものだ。
周辺にも、身動ぎや戦闘の跡ではない不自然な陥没があちらこちらに確認できる。恐らく、汚泥が触れた箇所から手当たり次第に、削れた分を補充しているのだろう。
こうなると最悪の場合、地球を破壊し尽くさないと倒せない事態も考えられた。
〈なるほど………どういう仕組みでソレが動いているのかは不明だけど、動いて暴れる意思があるのなら倒しようはあると思う。たとえば僕の居る場所なんかは仁科邸と同じで半異界化した空間みたいでね。通力の供給で機能している〉
「なら、何処かに通力を生み出す核となる部分があるって事ですか?」
〈核、か………うん、多分ね。僕は内部でそれらしい物を探してみる。犬塚君の方でも消耗戦が無意味だと判明したわけだし、もう堅実は忘れても良いよ〉
戌孝は公浩を慕い、尊敬の念を抱いているが、その言葉を盲信も依存もしていない。立場としての上下関係は、先輩後輩である事を除けば存在しないのだ。
しかし、堅実を忘れても良いという言葉は戌孝にとって、いわゆる許可のようなものであり、期待されているのと同義だと受け取っていた。
「黒沼先輩は巻き添えにならないでしょうか?」
〈さっきも言った通り、半分以上は異界みたいになってて位置やら距離やらの法則が外とはズレてる。全く大丈夫とは言えないけど、そっちの攻撃で諸共に吹き飛んだりはしないとは思うから、遠慮しないでぶん殴っても大丈夫〉
通信により、中と外の状況に差異があることは分かっている。公浩によれば、巨人が転倒しても中の様子に変化は無かったらしい。
それなら全身を穴だらけにしても、中の人間までどうにかなる可能性は低いだろう。
〈じゃあ、外の事は頼んだよ。こっちはこっちで動くから、何かあればまた連絡して。犬塚君と違って、こっちはペラペラの通信符で片手が塞がってるんだからさ〉
「分かりました。そちらも気を付けてください」
その間も戌孝は巨人を押さえ付けていたが、そこで通信を切り、巨人を見下ろせる位置に移動した。一旦、動きを止めて呼吸を整える。
VwwoooOoOOO―――――!!!!
巨人は猛攻が止むと平然と起き上がり、一方的にやられていた事の怒りを叫ぶように咆哮を上げた。
このまま攻め続けても埒が明かない。ならばと、一度落ち着いて思考を巡らせてみる。
汚泥の巨人が街そのものや住民への危害となるのは間違いない。兎に角、出来るだけこの場に押し留めて戦闘を行うべきだろう。
幸いにも巨人の矛先は戌孝に向かっており、小山が落ちてきたかと見間違うパンチや踏みつけを、人間が蚊や蟻に対して行う大人げない八つ当たりと同じスケールで繰りだしていた。
だが、それらは戌孝には鈍重に過ぎる攻撃だ。周辺の建物や地形へのダメージを無視するなら、それこそハエが止まる攻撃でしかない。
問題は人的被害だ。
屋敷に侵入する前に多数の退魔師を昏倒させて放置したままであった。彼等は久我山竜胆が連れて来て周辺に配置していた“社”所属の退魔師たちに運び出されたみたいだが、さすがに今の戦闘区域の外まで運ぶ事は難しかったのだろう。戌孝の視界の端に、少人数で20人近くを退避させている退魔師たちの姿が映った。
(どうしよ……けっこう足枷になってるなぁ)
先程からの戦闘で派手な高威力技を使わなかったのはこれも理由である。
巻き込まないように随分と気を張っていたのだ。
完全に視界から居なくなるまで大技は撃ち難い。かと言って、目の前の汚泥が触れた端から周りのものを無差別に取り込んでいる様を見ると、長期戦にするのは怖い気もする。
(僕一人じゃキツイか)
公浩が内側から敵の息の根を止めるのを待つか、それとも自分が期待に応えて正面から打ち破るか。
出来れば後者を選びたいところだが………人を守りながらの戦いは中々に骨が折れる。
こうして考えている間にも戌孝が削いだ体表は再生してしまい、さらには想像していた中でも最悪の事態が発生しているようであった。
「巨大化のペースが早くなってる………」
汚泥の巨人は出現した時より目に見えて体積を増し、その成長速度も加速していた。おまけに取り込んでいる物のせいなのか、外皮は既に汚い泥ではなくなり、鉄などの鈍い光沢を帯びた硬質さが全体を覆っている。
戌孝が考えていたより、急を要する事態なのかもしれない。
「悠長にしてられないか――――っっ!?」
ブオンッッッ!!!
先までより明らかに速さを増した巨人の拳が戌孝に襲い掛かる。
それまでなら届かないだろう位置にいたため油断していた。なんとか反応して躱したが、拳が起こした暴風に煽られて体勢を崩してしまう。
膨張に対処して間合いには気を付けていたのだが、まさか腕を伸ばしてリーチを埋めてくるとは思いもしなかった。
しかも戌孝が体勢を立て直す前に、振るった腕から触手と言うか……汚泥に鉄屑やガラスなどを混ぜて槍状に尖らせた物が無数に伸びて来たのだ。
「くっ――――!」
強度はそれほどでもなく、壊すのは容易い。だがそれらが壊れて千切れ飛んだ直後には別の触手が残骸を取り込んで合流し、戌孝は一瞬にして全方向を囲まれてしまった。
それらはそのまま包囲を狭め、戌孝へと纏わり付いていく。
素材は汚泥を中心に、車や自転車の部品、鉄骨やコードのような物まで。それぞれなら何てことはないゴミだが、これ程までに隙間無く密着されてしまうと身動きが取れない。
おまけに触手の形状を槍に変えて全身にチクチクと突き刺してくる。“固有秘術”による強化が無ければ、今頃はハリネズミだ。
「っせあ!!」
ガシャアンッッ!!
戌孝は現段階で自らの最大の戦術とも言える力任せにてゴミ山を薙ぎ払い、無理矢理に脱出を成功させる。
が、これはいよいよ面倒な事態だ。
無尽蔵に物質を取り込んで巨大化していく怪獣、しかも攻撃の手段まで多彩になっているときた。
見ると、巨人の全身は何らかの金属に覆われ、僅かに確認できる隙間からは汚泥で構成された触手がうねりながら生えている。
その全容はあまりにも歪で醜悪そのもの。戌孝はそんな化物から放たれている触手の群れによる囲い込みから逃れるため、迎撃だけでなく短距離の転移も使用して回避していた。
(黒沼先輩が言っていた……木刀の範囲なら何でも出来るトンデモ能力か。あの人の助言が無ければ、この力をどう鍛えていいかすら分からなかった……こんなに使いこなせもしなかったろうな)
得物が届く狭い範囲とはいえ、『転移』なんて離れ業……数日前なら狙って使えるものではなかった。
切羽詰まった時、まぐれで発動する程度だったものだ。
それを公浩が、本人すら持て余していた“固有秘術”の特性を理解し、使い方や鍛え方を考えてくれた。
それが無ければ、今ごろ自分は死なないまでも為す術無く戦闘不能に陥っていたに違いない。戌孝は改めて黒沼公浩が檸梨市に居た事の幸運を噛みしめる。
それを思うと………堅実さは忘れて良い=倒してしまっても良いという公浩の期待に応えて、認めてもらおうとする欲が出てきた。
「一か八か……は、苦手なんだけどっ」
戌孝は触手を躱しつつ、空中を蹴ってアクロバットな動きで汚泥の巨人……その頭上のさらに上空へと躍り出る。
「この距離なら追撃されないか。だったら………」
正直、こんなに早く使う機会が来るとは思っていなかったが、やはり公浩の助言は神懸かっているらしい。
戌孝は得物である木刀を二本、交差させてぶつけ合わせる。
十字に重なり合った木刀を、“固有秘術”によってその在り方を改変していく。
形態を変え、通力の膜を帯びたそれは、身の丈を軽く越える一本の大剣の姿を成した。
戌孝はその柄を掴み、鋒を汚泥の巨人へと定める。
「名前は……『巨人殺し』にしとこうかな」
ビュオンッッ――――
鋒を巨人の脳天に向けたまま、戌孝は上空から地上へと強く踏み込んだ。
“固有秘術”で木刀から大剣へと姿を変えたそれは、『凍結』と『停止』の概念を付与して作り出されていた。
今の戌孝が使える数少ない概念だが、これが決まればあの巨人を暫くの間だけ簡易的な封印状態に出来る。
概念付与など、本来その場で簡単に行える事ではない。いち退魔師がその場で即座に可能な行為……それらとは次元が違う。
今は亡き術装の第一人者である殿町宗玄や、世界三大魔法使いと称されるメリザンドなどの“神託”作成者が、有り余る才能を数十から数百時間注ぎ込んで作り上げるレベルの代物だ。
今は戌孝のイメージが及ぶ簡単な現象を二つまでしか与えられない上に消耗も激しいのだが、それを抜きにしても凄まじい芸当と言える。
たが、もし失敗したら戦闘の続行は出来ない。
正真正銘の切り札。最後の大技だった。
(よしっ。こちらを見失って、まだ気付いていない)
何処に目があるのか知らないが、少なくとも頭のてっぺんには付いていないようだ。
上空に移動した戌孝を見失い、しかも探している素振りも無し。
これなら行ける……勝てる!
概念を付与した分、強化に回す集中力が残っていない。
故に、大剣が確実に突き立つよう高所へと昇った。これさえ成功すれば、後は“社”の退魔師に託してしまっても文句は言われないだろう。
それで公浩が内側から倒す……または脱出するまでの時間を稼げる。
自分の手で片を付けられないのは悔しいが、自分はこれで良いのだ。
だけど、少しくらいは認めてもらえるかな………?
それは他愛の無い望みだったが、戌孝はそこで詰めを誤った。
「――――っ! しまった!」
『巨人殺し』をキャンセルし、二本の木刀に戻す。戌孝が向かう先には光の粒子が舞う空間の近くで、逃げ遅れたらしき人間が二人。
巨人の足から這うように伸びている触手の群れが退避を完了していない退魔師に襲い掛かる寸前……戌孝は自分の体を間に滑り込ませていた。
汚泥の巨人はやはり知能が低く、視界から外れた戌孝を探し出してでも仕留めようとする思考は持ち合わせていないのだろう。ただし、それは温厚で無害という意味ではない。
戌孝を見失い、狙う相手を変えただけ。獣と同じで目先の獲物にしか興味が無い……汚泥で出来た人形でしかないのだ。
迂闊だった。
周囲の人間が襲われる可能性は予想できた筈なのに。
手柄を焦ったと言われても反論できない。
それでも……だからこそ……せめて誰も、死なせてなるものかっ――――
戌孝は逃げ遅れたらしき二人を背中に庇いながら、迫り来る触手を片っ端から叩き落としていく。
「ぐっ、ぅ――――っあああ!!」
『巨人殺し』を中途半端にキャンセルした影響で、かなり消耗してしまった。
固有秘術を維持する最低限の通力も枯渇寸前。自身の強化も覚束ず、燃えないゴミの寄せ集めにすら傷を負わされる。
かすり傷だが、押し寄せる金属、ガラス片の大群に呑み込まれて全身はズタボロだ。
「そこの人っ、気絶してる人を連れて離れてください! 早く!!」
戌孝が後ろに庇う誰かに声を投げる。
空から降りて来る時に見えた、明るい髪色のおさげとツナギを着ている女性が、自分と公浩で気絶させた仁科邸の退魔師を引き摺っている姿。その女性に、早く逃げるよう語調を強くして指示を飛ばした。
ところがその女性はと言うと、戌孝の必死さも何処吹く風。
焦った様子も無く、その場に立って冷静に戌孝を観察している。そして唐突に、高い笑い声を上げた。
「Ha―Ha―Ha―。ダイジョブデース少年。このくらい、レイが対処してくれマース」
カラカラと楽しげに笑う女性に、戌孝は困惑の色を隠せない。
自分は兎も角としても、そちらは真剣に命の危機だと認識していないのか?
「あれ? ワタシの日本語オカシイでしたカー? これでも結構話せる方ですガー」
「――――っっ、僕が援護できてる内に後退してください! いざとなったら見捨てて逃げますよ!?」
「OH、心にも無いことを言いますネー。ダイジョブダイジョブー。キミ良い子そうだから、レイが助けてくれるヨー」
触手の群れは完全にこちらを目標と定めたようだ。どれだけ斬って殴って撃ち落としても、勢いが収まる気配が無い。
そろそろ、守りながらというのも限界だった。戌孝が、遂に片膝を突こうとした、その時――――
「もうレイっ! 遅いー!」
「悪い、ギリギリまで見ていたくてな」
ビュォオオッッ!!
風が吹いた。
咄嗟に発生源を探した戌孝は、相対している触手の濁流……その向こう側に魔改造を施した旧日本軍将校の格好で泰然と立つ少年を見つける。その少年を中心に吹いた突風が触手を一掃して舞い散らせる光景は、元がゴミの集まりだけに綺麗なものにはならなかったが、一難去った事で素直に安堵の息を吐く事はできた。
「そこに居ろよ“規格外”。お前なら、俺の戦い方も参考にできると思うぞ?」
「――――! 危ないっ!!」
ドシンッッッ!!!
仁科家の敷地に満ちた光の空間を飛び越え、鉄屑の鎧を纏った巨大な足裏が少年を踏み潰した。
衝撃で周辺の民家が吹き飛ばされ、その爆風のただ中で戌孝が呆然と立ち尽くしている。
「心配ないヨー。潰してもニョキニョキ生えてくる奴だからナー」
虫けらのごとく踏み潰された誰かが気の毒になる粗雑な言い回しだが、それは正しく的を射た表現だったようだ。
カッ――――ガガガガッッーーーー!!!
戌孝が“固有秘術”を維持できなくなり膝を突いた次の瞬間。巨人の足裏から閃光のような何かが上半身までを貫き、汚泥と鉄屑の身体……その半分を粉砕し、辺り一帯に泥と不燃ゴミの雨を降らせた。
今度は、先程とは別の理由で戌孝は立ち尽くしている。
今や巨人の全長は二百数十メートルにもなるというのに、その半分が消し飛ぶ光景に驚かない筈がない。あれだけの威力……全快の自分でも容易には出せないだろう。
しかも、戌孝が最も信じ難かった事は、一目見て解るその閃光の正体だ。
あれは単純にして明快な代物……長大で強度が高いだけの『光剣』だったのだから。
「地面に接してると修復されるんだろ! わかってるぜ!!」
ドガッッ――――
少年は戌孝が姿を見失う程の速度で、体勢を崩した巨人の残された足まで移動し、その細身の身体から牙を彷彿とさせる鋭い貫手を繰り出し、突き立てた。
手のひらが上を向いた状態で刺さった直後……その日いちばんの非常識であり現実離れした出来事を、戌孝は目の当たりにする事となる。
「こんだけ軽くすれば上がんだろっ!」
ボゴォッッ!!
少年が体重を乗せた足が地面に沈みこみ、『虚空踏破』で足場を作り直す。
そして……突き立てた腕をググッと上に持ち上げたのだ。
二百数十メートルの質量がどれだけ重いかなど、考えるだけでも気が遠くなる。そんな物体を平然と掲げて見せる姿は圧巻を通り越して恐れすら抱かせた。
『イグナシオっ、網だ!』
少年は呼び掛けに返事が返るのを待たず、人型かも判別できなくなった鉄製の山を、空へ向けて投げ放った。
「誰も彼も………バケモノばっかりだ」
戌孝が自嘲とも諦観とも取れる言葉を溢し、上空でピタリと静止して動かなくなった鉄の塊を見上げる。目を凝らすと、どういう仕組みなのか蜘蛛の巣状に張り巡らされた通力の網に絡み取られているように見えた。
確かにこの方法なら……取り込む物が無ければ巨人が再生することも無い。この上なく合理的な対処方法だろう。
それが可能かどうかは別にして……
「“規格外”だな? 俺は仁科黎明……退魔師協会の会長だ。腰を落ちつけて話そう」
五月蝿いのは黙らせたと言わんばかりに、空に貼り付いたデカブツをあっさりと一瞥だけして、スタスタと戌孝のもとへ近寄っていく。
仁科黎明と名乗った軍服の少年を片膝を突いたまま見上げる戌孝の前に、歳相応の若々しい手が、朗らかで上機嫌な表情で差し伸べられた。
「仲間を助けようとしてくれて、ありがとな」
それは誠実で、好意的な姿だった。
だが……だからこそ戌孝としては言い難く、しかし好意に応えなければならない事があるのだ。
どうしても言わずにはいられない衝動に、戌孝の唇は仮面の奥から、その言葉を発する。
「チャック……開いてます」
「………おっふ」
戌孝の後ろでゲラゲラと爆笑して地面を殴っている女の声が、虚しく響き渡った。




