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鍵のありか  作者: 伊川なつ
王宮編
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始動

 見たくもないと一度は突き返した地図が、今、マナの懐に入っている。そっと服の上から押さえ、深呼吸。

 外は既に朝を迎え、空は白んでいる。窓を閉める。窓を曇らせる結露が彼女の指を冷やし、赤くした。

 冷たいまま放置されたベッドシーツを整え、半分に割れてしまったカップを重ねてテーブルへ。足で床をなぞるが、欠片は無いようでマナは安心する。


 鏡台を覗き込むと、微笑んだ少女がうつる。薄い夜着にいつも通り黒い髪、瞳。

 以前より顔の血色が悪いのは、昨日の昼から食べ物を口にしていないからだと気づき、マナは冷めた軽食を摘み口に放り込んだ。味が濃く香草が強い。喉の水分を奪い貼りつくそれを、無理やり飲み込む。

 一晩眠らずにいたけれど、マナの頭はすっきりと冴えていた。


「ーー元の世界には、戻らない」

もう一度鏡台に向き直り、そう呟く。


 それはヴァイツの丘で暮らしていた頃から、ずっと望んでいたことだ。元の世界に戻ることができるどうか、マナは方法を知る気も術もなかった。考えたことがなかった。

 しかし、旅芸人の女が示すならば、マナはその術を知らなければいけない。

 可能性を潰すために。




 元の世界での生活を思い出す。


ーーマナには父がいて母がいて、一つ違いの妹がいた。

 彼らはあまり家に帰ってこない人たちだった。数日おきに玄関の扉を開ける音が大きく響いて、紙幣が2、3枚置かれる。台所はろくに使われず、シンクは曇って冷たいまま。そんな家だった。明るくさわがしい声は、テレビに映る他人のものだけ。

 空腹に凹んだ腹をさすりながら、重たい制服を体に引っ掛けて学校へ。クラスメイトの明るい声も、どうしてかテレビの音のように、薄い膜越しに聞いているようにしか思えない。


おはよう、ただいま、いただきますーーそんな言葉たちをヴァイツの丘で思い出した。


 彼女の世界は、そんなものだった。

 戻りたい世界では、決してなかった。


 ミリアの無邪気に触れてくる手のひらの温度、母リタの騒がしい干渉、そして一年前、出会ったばかりのバーレンが告げた「自分はマナの兄のつもりだよ」というただ一言。それらがかつてのマナにとってどんなに珍しく、得難いものだったか。マナの大きな戸惑いと確かな喜びを、与える側でしかないヴァイツの人々にはきっと理解できないだろう。




「王家に与するなら私の価値を知らなきゃいけない。元の世界に戻らないための方法を探さなきゃ」


 この世界と元の世界の関係を探る。


 マナは王都に入って初めて、明確な意思を持つ。

 意思は表情に、表情は自信に、自信は行動に。その日から、マナは動き始めた。




「ねえ、リーズさま、今日は髪をあげて一つに結わいてくれない?」


 リーズが「おや」と思ったのは、その言葉で最初だった。マナの要望に「わかりましたわ」とよどみなく彼女の髪に香油をすり込みながらも、内心、首を傾げた。身支度について、マナが希望を述べたのは初めてのことだった。


 昨夜、お互い疲れた状態で起きてしまった小さな諍い。それを逃げるように放置して一晩。

 リーズは気を重くして、それでもいつも通りの笑顔で、数人の侍女とともに北の小部屋へ入った。しかし、マナがけろりと朝の挨拶を述べたので拍子抜けだった。

 テーブルに置いたままだった軽食も綺麗になくなっており、安心する。カップが綺麗に真っ二つになっていて一瞬ひやりとしたが、彼女が物に当たるほど苛烈な気性では無いと、短い付き合いでも感じていた。そのため、「不注意で落としてしまったの。ごめんなさい」というマナの謝罪を、リーズも素直に受け取った。

 共に連れてきた侍女に片付けとテーブルのセッティングを任せ、マナの身支度を進める。

 首を傾げつつも、癖一つ無い髪を持ち上げて、緩みがないよういつもより強く縛った。

 

 次に「おや」と思ったのは、彼女の着替えが終わった際。ワンピースの編み上げリボンを整えると、タイミングを見計らったように、マナが「ねえ、今日は部屋の外へ出かけてもいいかしら」と請うた。


「昨日あんなにイライラしてあなたに当たってしまったのは、きっと日に浴びる時間が短すぎるせいだと思うの」


 リーズは、思わずまじまじとマナの瞳を見つめ返してしまった。


「あなた、今まで部屋から出るのに、私に一言もなかったじゃない」

「分かっているわ、それはごめんなさい。いつも部屋の外へ出ると、リーズが怒って迎えにきてくれていたわね」

「当たり前です。いくら来客用の離れと言っても王宮内ですわよ。一言もなしにフラフラされては困るの!」

「反省するわ。でもリーズが前言ったように、私は山育ちなの。貴族のお姫様のようにじっと部屋にこもって刺繍や歌や読書を続けるというのは、もう無理なのよ。ここ数日間、これでも頑張ったと褒めて欲しいくらいよ。リーズだってそう思わない?」


 マナの必死な言葉に、リーズは眉をしかめ押し黙った。しかし、ややあってため息交じりに「それもそうね」と呟く。


「私だって、別にあなたを軟禁するために一緒にいるわけじゃないわ。そもそも、普通に外出したいと相談してくれれば、庭園や一般公開されている場所なら案内できるのよ。申請が通ればだけど、城下への外出も警護を手配するわ。あなたがこれ以上ほいほい窓からいなくなったりしないのならば!」

「本当に?!」

 ぱあっと喜色を浮かべたマナに、リーズは額を押さえた。

 今まで再三「頼むから大人しくしていろ」という指導を、丁寧な言葉遣いに嫌味を混ぜ込んでしていたが、マナには正しく伝わっていなかったらしい。


「ねえ、リーズさま。でしたら、今日はこの城の作りを教えてくださらない? とても広くて、建物のどこが入っていい場所でどこが駄目なのか、てんでわからないの。前に行った図書館のように気軽に行ける場所が王宮内には他にもあるの?」


息も荒くそう言い募るマナに、リーズは「待って。その前に朝食が先よ。その後だったらいくらでも付き合うから」と嗜める。マナは「それもそうね」と身を引きつつも、気持ちが急いているのは明らかだ。


「突然どうしましたの」とリーズが尋ねると、マナはテーブルにつきながら、くすくすと笑った。


「だって、リーズさまが言ったのよ。中身が足りないと思うのなら、これから磨けばいいのでしょう? 王宮での暮らしのこと、夜会の作法、この国のこと。付け焼き刃になってしまうけれど、どうか今日から磨いてくれないかしら」


 リーズはまた「おや」と驚く。あれほど嫌な顔をしていた夜会について、積極的な言葉がマナから出るとは思わなかったのだ。


 朝食のスープと果物がテーブルに運ばれるのを横目に見ながら、リーズは

(彼女にどれほどのことを教えていいのか、確認しなければ)

と、マナの世話付きを手配した者へ送る書簡の文面を考えていた。


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