第18話 俺、妖精の国へ落とされる
その夜、俺はメイランに呼び出された。
「妖精の国、行くんだろ?」
そう言われて連れてこられたのは、宮殿の一角――ではなかった。
東方の都の外れ、人気のない森の中。
朱塗りの小さな社だった。
「……ここ?」
「そうだよ」
月明かりの下、社はひっそりと建っていた。
昼間の華やかな宮殿とは違って、妙に静かで、空気がぴんと張っている。
「妖精の国って、もっとこう……普通に門とかないんですか」
「ないね。普通に探して見つかるものじゃあない」
「へえ……」
「本当はちゃんと手順があるけどね……今日はゴリ押しだよ」
「ゴリ押し……」
慄く俺を見て、メイランはくすりと笑った。そして、社の扉を開けた。
中は狭い拝殿のように見えたが、さらに奥へ進むと、床板の一部が音もなく横にずれた。
「うわっ」
「こっちだよ」
現れた階段を下りると、その先には、薄暗い部屋が広がっていた。
八角形の、妙な部屋だった。
床には赤と金で複雑な陣が描かれ、中央には黒い石の台座がある。
四方にはそれぞれ、大きな香炉、浅い水盤、青銅の鏡、見たこともない方位盤のようなものが置かれていた。
天井からは細い鈴と札がいくつも垂れ下がり、どこからか甘い香が漂っている。
「……うわ、なんか……めっちゃそれっぽい」
「それっぽい、とは失礼だね。本物だよ」
メイランは部屋の中央へ進むと、俺を振り返った。
「そこに立ちな」
「そこって」
「陣の真ん中」
「いや、怖い怖い怖い」
「別に、取って食うわけじゃないんだから」
とはいえ、ここまで来て引き返す気もなかった。
俺はおそるおそる、床に描かれた陣の中央へ立った。
「で、何するんです?」
「何も」
メイランはそう言うと、深く息を吸い込んだ。
「集中するから、一旦、黙ってな」
そして、自分の頭に差していた赤いかんざしへ手を伸ばし、すっと抜いた。
結い上げられていた黒髪が、さらりと肩を滑り落ちた。
「……おお」
艶のある長い髪が、月のない夜みたいに背中へ広がる。思わず息が漏れた。
いつもの飄々とした空気が、少しだけ変わった気がした。
次の瞬間だった。
ぶわりと、彼女の背後で何かが揺れた。
「……え?」
一本。
また一本。
黒く艶やかな尾が、羽織の後ろから現れる。
二本、三本、四本。
思わず後ずさった。
「ちょ、待って」
五本、六本、七本。
尾はゆっくりと広がり、空気を撫でるように揺れた。
八本。
そして、最後にもう一本。
「九本……」
月もない地下の部屋で、九本の尾はそれぞれが淡く妖しい光をまとっていた。
圧倒される、というのはこういうことを言うのだろう。
メイランは細い目を少しだけ細めた。
「そんなに驚くことかい?」
「いや驚くだろ!」
「ふふ」
笑いながら、メイランは袖を払った。
すると、部屋の四隅に置かれていた香炉から、一斉に白い煙が立ちのぼった。
鈴が、ちりん、と鳴る。
床の陣が、淡く光り始めた。
さらに、正面の水盤の表面が、風もないのに静かに揺れた。
「……何これ」
「境をなぞってるのさ」
「わかるように言って」
「無理」
「無理なんだ」
メイランは水盤の前へ歩み寄ると、長い指先で水面に触れた。
波紋が広がる。
その波紋はただの揺れではなく、光る紋様になって水面いっぱいに広がっていった。
やがて浅いはずの水盤の中に、底の見えない暗い水面が現れる。
「……これ、まさか」
「うん」
メイランが振り返る。
「ここから落ちる」
「聞いてない!!」
「今言ったよ」
「もっと早く言え!!」
俺が全力で抗議すると、メイランは喉の奥でくすくす笑った。
「大丈夫。死にはしないよ、たぶん」
「たぶんって言った!?」
メイランはただ笑った。
九本の尾がふわりと広がる。
その姿は、綺麗で、恐ろしくて、やっぱりどこか底が知れなかった。
「……ナオト」
メイランが片手をこちらへ差し出す。
俺はごくりと唾を飲み込んだ。
でも、ここまで来たのだ。
怖いからやめる、では、何も変わらない。
俺は深呼吸して、メイランの手を取った。
ひんやりしていた。
「……行ってきます」
「うん」
メイランは、いつになく穏やかに笑った。
「死なない程度に、頑張っておいで」
「縁起でもないこと言うな!」
次の瞬間、足元の陣が強く光った。水盤の中の闇が、ぐんと広がる。
俺の身体は、引きずり込まれるように前へ傾いた。
「うわっ――!」
落ちる、と思った、その瞬間。
最後に見えたのは、長い黒髪を揺らし、九本の尾を広げた妖狐が、こちらを見下ろして笑う姿だった。




