第16話 愛衣 大学2年生 7月その1
大学に入学してから二度目の夏休みが始まり、一週間が経った。
相変わらず、私は大学の図書館に通って、八宮先輩からプレゼントしてもらった液タブにペンを走らせている。
八宮先輩との共同作品であった『氷晶恋愛譚』が終わり、私は自分の漫画を描き始めていた。今はその準備期間だ。登場人物の外見を考え、表情を描き、仕草を想像する。
描いては消して、また描く。
今日も九時の開館から十六時現在まで、お昼を食べずにふとしたきっかけで腕時計を見るまで描き続けていた。
私の『描きたい』という欲は収まらない。
しかし閉館時間も近いのでそろそろ切り上げなければならない。
私は席から立ち上がり、人がいない静まり返った図書館で思いっきり伸びをし、陽が傾いた窓に映る外の景色を眺める。正面に見えるビル群、その背景にある山のさらに向こう何百㎞か先に、八宮先輩が入院している大阪の病院がある。
「八宮先輩…」
小さく呟く。
会いたい。
声が聞きたい。
無事なのか知りたい。
だけどこれ以上心配をかけたくもない。
そんな終わりの見えない先輩への未練から気持ちを奮い立たせるように、私は今日も先輩の言葉を思い出す。
── 愛衣、君なら大事を成せるさ。だって君の革命と恋はね、僕の革命と恋よりもきっと大きく、光り輝くものになると、そういう風に思えてならないんだ。僕が惚れた人だし
緊急入院した八宮先輩と連絡が取れなくなって二週間、不安も寂しさもあるけれど、私はあの言葉のおかげで、今日も未来に続く我が道を見失わずに歩めている。
次に会う時、胸を張れるように、私は私の革命を続けよう。恋は、まだよく分からないけれど。
今の私には、八宮先輩以外を好きになる未来なんて想像できないから。
帰宅の道中、速水くんが私のアパートの方から何やら大きな白い紙袋を持って歩いてきた。
そんな速水くんは私を見つけた瞬間、肩をびくっと跳ねらせ、目が泳ぎ、まるで犯行現場を目撃された犯人みたいだった。
だが目が合った以上、無視するのも不自然なので声を掛けることにした。
「あら、速水くん、こんばんは」
速水くんは私に声を掛けられると、立ち止まり、慌てたように目を見開き、口を数回ぱくぱくと開いたり、閉じたりした。
友達になって三ヶ月。話しかけてくれるものの、どこか居心地が悪い様子で、ずっと気を遣っているように見える。
今話しかけたのも、迷惑だったかしら。と反省し、立ち止まることなく彼の横を通り過ぎようとした。
「塩義さんっ!待ってっ!」
速水くんの大きな声が背後から飛び込んできたので、思わず肩を跳ねさせながら振り向く。
すると夕陽を背にした速水くんはなぜか頬を朱に染めながら、これっ!と紙袋を突き出した。
「いっぱい悩んだけど、どれがいいかわからなくて…あのっ、要らなかったら捨ててくれて構わないので」
「一体何?そもそも何にもない日に、唐突に何かをプレゼントされても困るだけなのだけど」
速水くんは目を丸くする。
「あれ…今日って、塩義さんの誕生日じゃないの?」
へ?と間抜けた声を漏らしながら、カバンからスマホを取り出した。
『7月31日』と表示されているホーム画面を見て、ようやく今日が私の誕生日であることを思い出す。
あっ…と小さく声を漏らすと同時に速水くんは紙袋を引っ込め、頭を下げ出した。
「ごめんなさいっ。いきなり迷惑だったよね。ほんとごめんなさい」
相変わらず謝ってばかりの速水くんに、私はため息をつきながら口を開く。
「いや、迷惑ではないし、謝る必要もないから顔を上げて」
私の言葉に逡巡を見せながらも顔を上げる。その仕草が妙に小動物じみていて、少しだけ可笑しい。そんな速水くんに気になることがあった。
「ねえ、どうして私の誕生日を知っているの?」
まずい事情でもあるのか、速水くんは視線を足元に向けながら恐る恐る口を開く。
「こないだ、櫻木先輩から聞いて……」
「あぁ…あの人か…」
私は額を押さえながら回顧した。
学期末試験が終わった一週間前、講義棟から出た瞬間に新歓ぶりに櫻木先輩から声をかけられ、そのまま半ば強引に飲みに連れて行かれた。飲むとは言っても、私は未成年だからウーロン茶しか飲まなかったけれど、櫻木先輩は新歓の時のようにお酒を上機嫌で飲み、普段以上によく喋った。
だけど不思議と居心地は悪くなかった。むしろ少しだけ八宮先輩を思い出してしまうくらいだった。
そのせいだろう。気づけば私は色々なことを話していた。八宮先輩のことは黙っていたが、誕生日や漫画を描いていること、速水くんとの関係も、訊かれたことは全て。
おまけに連絡先まで交換してしまったのだから、今さら驚く話ではない。
私は小さく反省しながら、速水くんが抱え込んだ紙袋を指差した。
「あぁ、じゃあひょっとしてその紙袋の中身、私への誕生日プレゼント?」
速水くんは小さく縦に頷く。
はっきりと自分への誕生日プレゼントだとわかった瞬間、心が温かくなり、素直に嬉しく思った。
「ありがとう。速水くん」
そう言って、ありがたく受け取ろうと思ったが、ふと櫻木先輩が頭をよぎり、手を引っ込める。
櫻木先輩はたぶん速水くんが好きだ。
飲みの席で櫻木先輩が速水くんへの好意を明確に打ち明けたわけではないが、あの席で櫻木先輩は何度『水斗くん』と口にしたことか。その度にアルコールではなく、感情によって頬を朱くしていた。
もうそれは好きだと明言しているようなものだ。私はそう思った。
一方、速水くんは今だに私との友達ごっこにまじめに付き合ってくれている。顔は良い方だとは思うがもちろん友達止まりだ。
それに新歓では櫻木先輩から速水くんが私に好意を持っているとカミングアウトされたが、彼と話すようになり三ヶ月、彼が私に好意を抱いているような雰囲気はない。むしろ友達になろうと言っておきながら素っ気なくする私に、速水くんはいつも気を遣っているように見える。居心地の悪さに嫌気がさしているのかもしれない。
だとすれば、私はそんな彼に、友達ごっこに付き合ってもらったせめてものお礼として、恋を応援すべきではないのか。そうすれば私のことも忘れて、彼も自分の恋と革命に邁進できるだろう。
そうだ。八宮先輩はもう学校には来ないだろうから、友達は不要だ。
「速水くん」
「はい」
私が真っ直ぐ速水くんに視線を向けると、一瞬視線がぶつかったが、速水くんはすぐに視線を逸らした。それでも私は言葉を続けた。
「誕生日プレゼントはありがとう。でもね、速水くん。私にプレゼントをするなら、櫻木先輩にプレゼントした方がいいと思うよ」
速水くんは呆けた表情を私に向ける。
「どうして…櫻木先輩に?」
「これは私の推測なのだけど、櫻木先輩、たぶんあなたのことが好きよ」
私の言葉に訝し気な表情になる速水くん。でもその速水くんの気持ちはわかる。学内一の美女が自分のことを好きだなんて考え、普通なら追いつかない。
「気持ちならわかるわ。私の言ってること信じられないわよね。でも櫻木先輩は八割がた、速水くんに好意があるわ。だって私、この間──」
「告白された」
「そう、告白された………は?」
寝耳に水の告白に、私はフリーズしてしまう。そんな私に、速水くんは慌てて補足した。
「櫻木先輩に告白されたけど断った…よ」
理解が追いつかない。
確かに新歓の時、櫻木先輩のことはどうにも想っていないとは言っていたけれど、それは私の前だから、恥ずかしがっているだけだと思っていた。なんなら、この間の櫻木先輩との飲みで二人は相思相愛だと思っていたくらいなのに。
「塩義さんっ」
速水くんが私を呼ぶ声でふと我に返ると、いつの間にか速水くんを無視して歩き出していたことに気づき、慌てて振り返る。
「ご、ごめんなさい」
謝ったと同時に速水くんは深く頭を下げた。そして震える右手をまっすぐ差し出した。
「俺と付き合ってほしい……です」
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