第17話 愛衣 大学2年生 7月その2
「俺と付き合ってほしい……です」
「え…えと…ちょっと待って……」
思わず漏れた声は、自分でも情けないほど上擦っていた。そんな私に、速水くんは顔を上げ、潤んだ瞳を真っ直ぐに向けてきた。その引き込まれそうな丸くて大きな瞳はまるで八宮先輩の瞳のようで、耐えきれずに顔を逸らしてしまう。
「もし無理なら、はっきり無理だと、今ここで振ってほしい。そしたら諦められるから」
珍しくはっきりとした速水くんの言葉だったからだろうか。妙に重く胸に沈み、私はかえって混乱してしまう。
「わかった……わかったから。ちょっと……待って」
そんな情け無い言葉が口をついて出た。
しかし私は速水くんに一体何を待ってもらう必要があるのだろうか。
私は速水くんのことを友達ごっこに付き合ってくれるお人好しにしか見ていなかったというのに。恋愛対象として見ているのは八宮先輩だけだと言うのに。
──理由なんていらないじゃない。悩むくらいなら、速水くんと付き合えばいいのよ。
私の中の私がそんな無責任で、甘くて、都合のいい言葉を囁く。
好きでもない相手と付き合っても幸せになれない。そんなことはわかっている。わかっているのに、その声は少しずつ大きくなっていった。
「塩義さんっ」
背後から飛び込んできた速水くんの声に肩がびくりと跳ね上がる。
気づけばまた速水くんを置いて歩き出していた。この状況から逃げ出したいという本能的な行動かもしれない。ならば逃げ出してしまえばいい。そうしたいはずなのに、振り返ることもできないまま、たった一つだけはっきりとしていることを口にした。
「速水くん…私、好きな人がいるんだけど」
私は八宮先輩が今も好きだ。そのことに変わりはないし、彼の代わりもいない。間違いなくそれが真実。だからこの一言で諦めてほしい。そう祈る。
──八宮先輩はもういないよ。あなたの寂しさや不安を埋めてくれる人はもういない。いい加減気づきなさいよ。
私の中の私がまた囁く。その囁きに呼応するように、必死に蓋をしていた感情がゆっくりと溢れ出した。
寂しい。
会いたい。
見てほしい。
認めてほしい。
押さえつけていた感情がとめどなく溢れ出ていく。そんな感情に押されて、結んでいた口もあっけなく開いてしまい、言葉が溢れる。
「私、その人にこないだ告白したばっかで……まあ振られたんだけどさ」
まるで速水くんに交際を迫り続けるようにわざと機会を与えているような余計な一言。失言だ。
そもそも相思相愛でない片想いの恋に、良い末路はないことくらい私にもわかる。
それなのに、速水くんとならまた違うんじゃないかと安易な想いを抱く自分がいる。
とにかく訂正しようと口を開いたが、後の祭りだった。
「塩義さんに好きな人がいても、俺は構わない」
速水くんの甘い言葉に私は振り向いてしまい、真っ直ぐこちらに向けられた速水くんの視線に捕まってしまう。
「もし付き合ってもらえるなら、それだけで嬉しいから」
逃げ場のない眼差しは、誤魔化しも、照れ隠しもない、ただ真っ直ぐ私だけに向けられた好意だった。
生まれて初めてそんな感情を向けられたことに言葉にできない高揚感を覚えた。
その瞬間、速水くんが私だけに向けられた好意を確かなものしたいと欲張る私が口を開いた。
「じゃあ訊くけどさ…」
「うん」
「私は速水くんの告白を受け入れて、あの人から離れるべき?それとも諦めずにあの人にもっと近づいていくべき?」
「それは…」
速水くんが言葉を詰まらせる。
そのまま断ってくれていいと思う自分と、彼に期待をしている自分がいる。
だが天秤は拮抗することはなく、実は傾いていることを私は理解している。だから気づかないふりをして言葉を続けた。
「ちなみに前者の場合でも、私はあの人のことを好きである気持ちはちょっとやそっとでは消えないと思うし、チャンスがあれば速水くんを捨ててあの人の元にいくかもしれない」
速水くんは開いた口を閉ざし俯く。
私に幻滅したか。いや、それでもそんな私と一緒にいてほしい。いっそのこと、私がどうするべきか、それは速水くんに決めてほしい。
そんな無茶苦茶な考えを抱いている私はどうかしている。だから正しい判断ができないから、速水くんに選択の決定を押し付けることを、責任転嫁だとわかっていながら正当化している。
私という人間は改めて酷く狡く、醜い人間だと思った。
これは良くないことをしている。八宮先輩に会わせる顔がないくらいのことを。
──八宮先輩のことを気にする必要があるの?ないよね。だってもう彼はいないのだから。
私の弱い部分が、私の中の私によって広げられていく。八宮先輩によって塞がれていた穴を、無理矢理広げていくように。
寂しい。
苦しい。
誰かに見つけてほしい。
誰かに必要としてほしい。
そんな弱さに塗れた私なんて、速水くんは嫌いになるだろう。そうであってほしい。
けれど速水くんはゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐ私を見つめて言った。
「それでもいい。だって俺は、ただ塩義さんを誰よりも近くで見ていたいだけ。その権利がほしいだけ」
胸がどくりと鳴る。
『見ていたい』、その言葉はまるで特大のキラキラと輝くダイヤモンドの指輪のように魅力的で眩しかった。
私という存在を見ていたい。そう言ってくれる人が果たしてこの世にまだいるだろうか。
八宮先輩の言葉で色を塗らなければ、透明で誰からも気づかれないような私。
そんな私を見てくれる人が私は欲しかった。
速水くんの甘い言葉に流されながら、私は自分を口にした。
「私、デートとかしないよ」
「うん」
「面倒だし、その時間があるなら漫画を描いていたい」
「それでもいい」
「あとエッチもしないから」
「いらない」
速水くんは澄んだ瞳で私を真っ直ぐ見つめ、堂々と言った。
「デートもいらない。セックスもいらないし、キスだってしなくていい。それでも漫画は応援したい。だから邪魔はしないし、なんなら頑張って、塩義さん漫画がたくさん描けるように役に立つから」
漫画を描く私を認めて、尊重してくれるという都合の良い条件に、気持ちが私の中の私へと一気に靡いていく。
しかも速水くんは相変わらず真剣な眼差しで、それが下心から出た告白ではないことは明らかだった。
──いいじゃない。あなたの束の間の寂しさや不安を埋めてくれる相手としては理想よ。
でも私はまだ八宮先輩だけが好きで、速水くんのことはよく知らないし、好意を持ってはいない。所詮は友達ごっこの間柄。
──それでも彼がいいって言ってるんだからいいじゃない。どうせ都合の良い異性止まりであることに変わりはないんだし。
私の中の私が言ってることは最もだった。
そうだよね。彼は私に対して何も望まない。ただ私を誰よりも近くで見ていたいだけと言っている。私を見て、彼に何の利益があるかはわからないけど。
それに私は正直、寂しいのだ。八宮先輩が私の隣からいなくなり、会えない今、私を腐らしかねない喪失感を埋めるには速水くんしかいないと思う。
そうやって、都合の良い解釈を飲み込めば、迷いはしなかった。
「わかった。じゃあ…速水くん。お付き合いしましょう」
「ほんとっ!?」
ぱっと顔を輝かせる。まるで長い受験の末に合格通知を受け取った子どものようだった。
その純粋な喜びが胸に刺さる。
「ええ。でもね、速水くん。私たちは相思相愛にはならない。それを前提に付き合ってほしいの。約束できる?」
速水くんは一瞬、下唇を噛みしめ、視線を下げる。だがすぐに私へと視線を向けて、縦に大きく頷く。
「約束する。塩義さんが俺を不要に感じたら、振ってくれていい。その時はすぐにいなくなるから」
「いなくはならなくていいよ。友達に戻ってくれればいい」
「わかった……でも、俺、ちゃんと塩義さんの役に立つから!不要にならないように頑張るから!」
その時、私は後悔した。
彼は心底純粋で、素直な人で、私はそんな彼の純粋さを利用してしまったのだと気づいたからだ。それは八宮先輩の時と同じだった。
それでも、私は速水くんに笑顔で右手を差し伸べた。
「とりあえず……よろしくね。速水くん」
速水くんは満面の笑みで私の右手を握る。
握られた手の温かみに酔いしれながら、私は私の中にまた嘘つきな私が生まれていることを自覚していた。
⭐︎お知らせ⭐︎
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次回18話の投稿は9月31日(水)午前11時になります。
→余裕をもって執筆できるように原稿をストックしてきたのですが、仕事の方が予想以上に多忙で、結局追いついてしまったためです(๑˃̵ᴗ˂̵)テヘ
18話以降は、ノンストップで最後まで投稿を続けたいと思います!
まだまだ未熟者で勉強中ですので、おかしい点や不明な点、また誤植、誤字、脱字があればぜひ教えてください!
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