第14話 水斗 大学2年生 7月その2
「私は正直に言うけど、水斗くんのことが好き。大好き」
突拍子もないことを言ってのけた櫻木先輩の表情にからかいの色は見えず、至極真面目だった。
学内一の美女という肩書きが、告白をされたという現実感をまるでなくし、おかげで驚きすらも追いつかなかった。
「とりあえず行こか」
櫻木先輩は苦笑しながら、呆気にとられた俺の手を引いて、塩義さんがいる公園から引き剥がすように歩き出した。
手を引く先輩の白いワンピースが夏の陽射しを反射して、それが目の前の美女に告白されたという事実を余計に幻のように思わせた。まるで白昼夢の中を歩いているみたいに、ぼんやりとその背中を見つめていると、先輩が肩越しに振り返る。
「ハテナ浮かんでるで」
先輩の笑い声でようやく現実に意識が戻る。
「あ、当たり前ですよ。わけがわからないですから」
「何が?」
「どうして俺なんかを好きになるんですか?」
櫻木先輩は少しだけ首を傾げた。
「恋に理由がいるかー?」
「動機くらいあるでしょ」
そう返した瞬間、櫻木先輩がぴたりと足を止め、振り返った。
そんな先輩の顔からは、さっきの真面目な表情はすっかり消えて、代わりに悪戯を思いついた子どものような笑みが浮かんでいた。小さく口角を吊り上げながら、先輩は人差し指をこちらへ指し向ける。
「じゃあさ……風野るあにはどんな動機を持ってたん?」
「え……」
聞き間違いであってくれと願う。
「だーかーら、風野るあにはどんな──」
「やめてください」
反射的に拒絶の言葉がでる。
「え?」
面を食らったように目を見開く櫻木先輩に、俺は間髪を入れず、その名を口にすることを拒絶した。
「本当にやめてください。その名前を言わないでください。聞きたく…ない」
胸の奥に封じ込めていた記憶が暴れ出す。
踏み込まれたくなかった場所。
触れられたくなかった傷。
暗闇が手の形を持ったみたいに首へ絡みつき、呼吸を奪う。そして視界が黒く染まり、膝から力が抜けていく。
「水斗くん!?」
櫻木先輩の声が聞こえ、肩を揺さぶられている感覚もあるが、それらは次第に少しずつ遠ざかっていく。
──なーんだ。じゃあもう、るあたちは一緒にいる意味ないよね
代わりに聞こえてくるのは記憶の底に沈んでいた、黒く濁った声だった。
その声の主は風野るあ。看護学部の同学年である彼女と俺は半年前まで恋人関係だった。
俺は彼女を最愛の人だと思っていた。
ずっと一緒にいるものだと信じていた。
冷笑を浮かべる彼女に振られるまでは。
遡ること大学一年生の四月。高校からお世話になっていた同じ学部の先輩に紹介してもらったことが、風野るあと繋がりを持ったきっかけである。
彼女は初対面ながらも、優しくて、一緒にいて落ち着ける人だった。彼女も同じ感想を言ってくれて、そこから会う回数が増え、友達として、親友として、仲を深めて、最後には恋人になった。
俺は間違いなくその時は幸せだった。振り向くと優しく微笑みながら寄り添ってくれる、そんな彼女が大好きでたまらなかった。そんな笑顔も、彼女の偽りの仮面の上に築かれたものだと気づかずに。
結論から言えば、風野るあは最初から俺自身に興味はなかった。
俺に笑顔を向けていた彼女の瞳に映っていたのは一部上場企業の社長を父に持ち、将来を約束され、金も地位も名誉も、生まれた時から手の中にあった黒井水斗という男子大学生だった。
半年前、何も知らない世間知らずの黒井水斗は、父から母とともに捨てられ、速水水斗になった。
豪邸は二間のアパートになり、何不自由ない生活はアルバイト漬けの日々へと変わった。
将来も立場も、一瞬にして崩れ去った。
けれど俺と風野るあの恋は変わらないと妄信していた。変わらず笑顔を向けてくれると思った。
アパートへの引っ越しが終わった翌日、俺は風野るあと前々から約束していたデートに行った。そして打ち明けた。
もう父親とは無関係になったこと。
家が狭いアパートになったこと。
これからアルバイトを始めること。
そしてこれからも一緒に歩いていきたいこと。
今思えば滑稽だった。素直であることが取り柄だと思っていた自分が、どうしようもなく情けなくて愚かだった。
──あっそ。じゃあ別れましょう。
その一言を言い放った彼女の、慈愛に溢れていた表情に亀裂が走る。
──だって意味がないじゃない?金が入っていない財布なんて持っていてもね。そんな簡単なことに気づかないの?
気づかなかった。俺はずっと、彼女が自分の内面を評価してくれていると思っていた。だからこそ自分は彼女の隣で存在してもいいと胸を張って言える存在なんだと思っていたから。
──存在価値のないゴミ野郎に夢を見せすぎたるあも悪いよね。ごめんね。でももうわかったでしょ?いい加減目覚めてよ。
俺たちは相思相愛で、俺たちの恋は現実に、確かに存在しているものだと勘違いしていた。
──不服なの?……なら説明してあげる。そもそもね、今のあんたがるあに何かを望む権利なんてないんだよ?そこはわかってくれる?
支え合って、助け合って、そして手を取り合って未来へ進んでいく。
そんな当たり前の願いすら、俺には許されていなかった。
『そんなこと……そんなこと言わないで』
気づけば縋りついていた。
『お願いだよ……これからはアルバイトをたくさんする。それで……お金だって稼ぐから。るあの言うことは何でも聞くし……いい彼氏!いい彼氏になりますからっ!だから……お願いだから……!』
みっともなく、愚かで、醜い姿だったと思う。外だというのに、目と鼻から水をたくさん流して、ひざまづく。今までの幸せだった恋人との日々、そして恋人と手を携えて歩んでいこうとした輝かしい未来が漆黒の闇に飲み込まれて、否定され、潰されていく。
そんな暗澹たる恐怖に震え、その様はとても醜いものだったと思う。
でも醜いのは、俺だけではないのだと顔を上げた瞬間理解した。
本性をさらけ出した風野るあの顔は、慈愛とは真逆だった。どす黒い感情が煮詰まり、腐敗し、ヘドロとなって張り付いているように見えた。
──へえ、るあの言うことまだ聞いてくれるの?
彼女は冷笑する。その笑顔は人を見下し、弄び、壊すことを楽しむ悪意そのものだった。
──じゃあ、死んでよ。るあを幸せにするなんて言って、るあを騙した嘘つきなんだから、当然でしょ?そして、るあの前に一生現れないで。
そう言って風野るあは背を向けた。一度も振り返らず、ずっと愛し合おうと約束した恋人を、まるで不要になったゴミでも捨てるように容赦なく見限った。
それから三か月後の今年の四月。塩義さんと出会った。
彼女は風野るあと正反対だった。取り繕わず、着飾らず、誰かに好かれるために自分を偽らない。
表情だってほとんど変わらないのに、その表情の奥には確かな意志があった。
そんな彼女が時折見せる喜怒哀楽の表情に宿る感情は、そのすべてが偽りのない本物の感情であり、そしてそれが自分だけに向けられた時、俺は確かに感じていた。
自分は存在していいのだと。いや、ちゃんと存在しているのだと。
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